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In the Year 1944
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1944年というと、おそらく、この HPを訪れていただいているみなさまは、まだ「お生まれ」になっていないのではないでしょうか。もちろんワタクシも、でございます。
時あたかも第二次世界大戦の欧州戦線ではイタリア半島に上陸した連合国軍がローマめがけて殺到し、Monte Cassinoにおいて死守せんとするドイツ軍との間で激しい戦闘が繰り広げられていたころですね。
おそらく日本ではそのころ、戦況が一層悪化してますます庶民の生活は逼迫し、娯楽なんてものは存在自体が敵視されかねない状況だったと思われるのですが、そこら国力の差なのでしょうか、アメリカでは Musicians Unionがストライキを決行してるんですよね。
もし日本だったら「あり得ない」でしょ。「この国難のさなかに、なにを考えておるのか!この非国民がっ!」てなワケで特高に連行されてゴウモン責め!
かの名曲、Caldoniaが米軍の記念行事のアトラクションとして Louis Jordanによって初演されたのも、この 1944年の夏と言われています(ただし、レコードとしては Woody Herman and his Thundering Herdが Columbiaに吹き込んで 1945年 2月に発売されたものが先になります)。
またこの年には Big Joe Turnerが Pete Johnson、Albert Ammonsとともにツアーを開始し、Arthur Crudupは RCAと契約し、Wynonie Harrisは Lucky Millinder Orchestraで初レコーディング( Hurry Hurry / Who Threw the Whisky in the Well)をしています。
また Donald Kinseyの父、Lester "Big Daddy" Kinseyが Indiana州 Garyに移ってきたのもこの年。
そー言えば、先日の Twilight Timeもオリジナル( by Buck Ram)は 1944年でしたっけ。
一方では、当時のアメリカ黒人の中では恵まれていた Charles Edward Anderson Berry、つまり Chuck Berryが高校生の時に、友人たちと乗りまわしていたクルマが盗難車だったために逮捕され、ケッキョク少年鑑別所に収容されることになる事件を起こしたのもこの 1944年でした。
で、その後に続けるのもナンですが、我が Screamin' Jay Hawkinsが学校をドロップ・アウトして陸軍に入った(たぶん音楽による慰問セクションだと思うんですが)のもこの年です。
さて、この年に生まれたミュージシャンはブリティッシュ系のマニアには重要なスターがいますよ。1月 9日には「あの」ジミー・ペイジが生まれています(あ、一緒にすんのもけったくそ悪いでしょうが、「日本では」有名だったウォーカー・ブラザースのスコット・ウォーカーことスコット・エンゲルも同じ日に生まれておりますよん)。そしてキンクスのミック・アヴォリーが 2月15日、同じくレイ・デイヴィスは 6月21日、フーのロジャー・ダルトリーが 3月 1日、ジョンが10月 9日、そしてジェフ・ベックが 6月24日!
ええいメンドーだ、だらだらっと羅列しちゃうぞ。
アル・クーパー( 2/5)、ジョニー・ウインター( 2/23)、ジョン・セバスチャン( 3/17)、Diana Ross( 3/26)、ジャック・キャサディ( 4/13)、ブルームフィールド( 7/28)、ピーター・トッシュ( 10/9)、キース・エマーソン( 11/2)、Booker T. Jones(11/12)、デニス・ウィルソン( 12/4)、なんて人たち、さらに、ワタシにはあまし関心はないけど、って 1944年生まれには、クリス・モンテス、ニッキー・ホプキンス、マーク・リンゼイ、ジェレミー・クライド(チャッド&ジェレミー)、リッチー・フューレィ(と表記すんの正しいのか?)、ジョー・コッカー、ミック・ラルフス、クラレンス・ホワイト、ボズ・スキャッグス、クリス・スペディング、ピーター・アッシャー(ピーター&ゴードン)、ブルース・ジョンストン、ロビー・ロバートソン、ジャッキー・デシャノン、ティム・ボガート、スコット・マッケンジー(一発屋かな?)、ジェシ・コリン・ヤング・・・
もちろん、まだいっぱいいるんですが、そこらはこのぐらいにして、と。
ちょっと見て判るとおり、後のホワイト・ブルース関係者(?)がワリと揃ってますよね。
ちょうどそうゆう年代なんでしょう。
あ、そうそう、いわばアナログ・レコーディングの時代を支えたファイン・テクノロジーとして君臨した、業務用テープ・レコーダーの雄、AMPEX社が設立されたのも 1944年11月 1日のことでございました(創始者 Alexander M. Poniatoffの三文字に Exellenceあるいは Experimentalの Exをつけたもの)。
そんな 1944年の春、冒頭で紹介したローマの手前にあったカッシーノの丘を守備するドイツ軍に対し、連合国側は 2月以降、徹底的な爆撃を実施し、遂に地上部隊による総攻撃を開始した 3月15日、遠く離れたアメリカのテキサス州 Dentonでひとりのオトコのコが生まれています。
Dentonは Dallasのほぼ11時の方向に約55kmほど離れた街で、北から南下して来たInter State Highway35がこの街で二手に別れ、35Eastと 35Westになります( 35Eastは Dallasを通過し、一方の 35Westは Dallasを迂回する形で南に向かって Wacoの手前でイーストとウエストが再び合流)。原油を算出し、また天然ガスも算出するようですが、この地に入植者たちが定住するようになったのは19世紀の半ばからで、当初は灌漑の難から、農業は盛んではなかったようです。その水を運ぶために 1850年には 100人ほどの黒人奴隷が「導入」された、とされていますので、Dentonでの黒人たちはそこから始まったものと思われます。
1860年には 87の事業主(もちろん白人)が合計で 251人の黒人奴隷を使役させていました。
こうして綿花を中心とした農業の発展により、7,000人台だった人口も 1870年代には 18,000人を超え、さらに鉄道の開通によって運搬手段が生まれたことにより、生鮮野菜も換金作物となっていきます(それまでは外部に搬出するルートが存在せず、圏内で消費するしか無かったワケね)。
とは行っても綿花が中心であることに変わりはなく、1920年にはその作付け面積は最大となり、さすがに1980年代には衰退するのですが、1944年当時はまだまだ中心的な産業だったのではないでしょうか。
ただ、1940年代には Dallas-Fort Worth国際空港が完成し、戦時中 Dentonはその旅客の宿泊や通過によって様相を変化させて行ったと言いますからから、まさに、そのさなかに Sylvester Stewartは生まれたのでした。
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Vallejo,
California
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太平洋がアメリカ西海岸に複雑に入り込んだ湾口の南側に発展した都市 San Franciscoから、湾を挟んだ東側の対岸にある Oaklandに渡り、そこから湾を左に見て北上してゆくと San Francisco Bayは東西から一度絞られて、その先は San Pablo Bayとなります。その湾が東に入り込んで Suisun Bayから Grizzly Bayとなる湾口 Crockettで北に渡ったところに、メキシコ統治下に将軍の名前から名づけられたと言う Vallejoがあります。
2000年の国勢調査では人口は 11万人を超えていますが、ここは 19世紀末からアメリカ海軍の拠点であり、太平洋岸における初の海軍造船所である Mare Island Naval Shipyardは 1854年 9月16日にスタートしていますから、その従業員や周辺の関連産業などで、また、第二次世界大戦のための潜水艦の建造によって、いっそう「活気づいて」いたことでしょう。
その造船所も 1996年には操業を終了し、跡地には Touro大学や、商業施設、さらに Roosevelt Terraceと呼ばれる住宅地などが作られ、すっかり様相を変えています。
また、Vallejoは Napa川の河口に位置するのですが、その上流の Napa Valleyは、いまや世界的に有名になった California Wineの産地として知られ、白人が住民の 8割を占める地域でもあります(一方の Vallejoは 24%を占めるネイティヴ・アメリカンも多く、白人は 35%、黒人が 23%)。
1944年の 3月15日に、教会の執事だった父の K. C. Stewartと、母 Alpha Stewartの間に生まれた Sylvester Stewartは Stewart夫妻の「長男」ではありますが、第一子ではありません。彼の上には姉の Loretta(後に結婚して姓を Saffoldと変え、Sacramentoで暮しています)がいました。この姉と彼までは確かに Texas州の Dentonで生まれているようですが、それ以降については、資料によって多少の混乱が見られます。
ほとんどの資料では Stewart家が Vallejoに移ってきたのを 1950年代に入ってから、としています。しかし、その同じ資料の中で Sylvesterの妹、Rosieについて 1945年 3月21日生まれ、としているのですが、その出生地がナゼか「Vallejo」となっている資料が大半なんですよ。
つまり、1945年には、すでに一家は Vallejoにいたのではないか?
ところが、その下の弟、Frederick( Freddie Stone。Melodyの異名もあったようです)の出生についてですが、1946年 6月 5日はいいとして、資料によっては Dentonと Vallejoの「両方」が出てきます。
さらにその下の妹、Vaetta Lazellについてはこれまたどうしたわけか一切、出生に関わるデータが見つかりません。
これらの出生地のデータだけで判断すれば、1945年にはもう Vallejoに「いた」と考えるのが当然ではないでしょうか?次男の出生地の混乱は単なる誤記ではないか?と思うのですが(というのも、まさか「男尊女卑」ってワケじゃないでしょうが、メンバーの構成として書いてある場合、「必ず」 Freddieが Rosieの「上」に書かれていて、長男の Dentonと次女で姉である Rosieの Vallejoに「挟まれて」表記されているため、上の行に引きずられたんじゃないか?という気がいたします)、どっちにしても、もはや戦後と言っていい時期のことですから、そこらギモンを持った研究者が現地でマジで調べれば判ることだと思います。
どうやら今のとこ、誰もやってくれそもないけど。
Texas州 Dentonと California州 Vallejoの距離を考えれば、あっち行ったりこっち行ったりしてた、とは考え難いですから、1945年にはすでに Vallejoにいた、とするのが当たっていると思うのですが・・・
さて、資料によっては、彼が 4才の時に早くも一家で結成していた the Stewart Fourの一員としてレコーディングを経験している、としているものもありますが、それもまたまったくの誤記ではないかと思われます。
史上、最も古い彼の録音とされているのは、1952年の On the Battlefield For My Lord / Walking in Jesus' Name─ Church of God in Christのレーベル(?) Northern Sunday School Department 78-101としてリリースされた 78回転 SPであり、それではもう 8才になっています。
それに the Stewart Fourというのは長女で姉の Lorettaの弾くピアノを伴奏として、長男の Sylvesterに次女の Rosie、次男の Freddie、末っ子で三女の Vaettaの「四人」が歌うことから付いた名前だと思うのですが、Sylvesterが 4才のときでは、Rosieはもしかしたら歌えたかもしれませんが、まだ 2才の Freddieや、三女の Vaettaに至ってはまだ 1才になったかどうか、というところで、そんな四人が録音出来るとは思えませんよね。
もしかすると 4才でレコーディング、というのは三女の Vaettaのことではないでしょうか?
Stewart家に残る写真で、子供たちが揃ってピアノの前に揃って歌う態勢になっているのがあるのですが、そこに写っている Vaettaが、ちょうどそのくらいに見えます。
さて、その Stewart Fourのレコードですが、タイトルや、その発行元を見ても判るように、モロ宗教色の強いもので、これは父が教会の執事を務めていた、という点からも当然のことだったのでしょう。
しかし、次に彼が残した録音は一気に還俗(?)し、ここでは妹二人だけと組んで吹き込んでいますが、Los Angelesのレーベルに 4曲を残しています。The Rat / Ra Ra Roo( Ensign 4032 / 1959)、Sleep On the Porch / Yum Yum Yum( Keen 2113 / 1959)の二枚のシングルが知られていますが、いずれも、その演奏者は the Stewart Brothersとなっています。もちろん、これも聴いたことはありませんが、コレクターによれば、the Coastersに似ているとか。ただし、この二枚のシングルは issuedという表現がされていますので、録音時期はもう少し前のことなのかもしれません。
ところで末の妹、Vaettaは後に Berkeleyの the Ephesians Church of God in Christのゴスペル・グループ the Heavenly Tonesに迎えられていますが、このグループは James Clevelandや Shirley Caesarらを輩出した「名門」であり、ここで出会った Elva Moutonと Mary McCrearyとともに Little Sisterを結成しています。
しかし、その結成前、17才のときに大病を経験し、医者からももはや為すすべがない、と言われたことがあったのですが、奇跡的に危篤状態から快復し、兄の録音にバック・ヴォーカルとして参加し、さらには各地のツアーにまで参加できるようになり、やがて Little Sistersを結成したのでした。
やがて Sylvesterは Vallejoの高校に通うようになったのですが、そこで彼は、Joey Piazza and the Continentalsという学内のロックン・ロールのバンドに参加し、そして、いまやあまりにも有名になったそのニックネーム「 Sly」を賜ることとなったのでした。
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Desegregation
in
Southern States
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The Stewart Fourから Stewart Brothersまでの間に 7年の月日が流れているのですが、その間に黒人を取り巻く状況はゆっくりと動き出しています。
1954年の最高裁の Warren主席判事が裁決した判決は、黒人子弟の受け入れを認めない「いかなる学校も」アメリカ合衆国憲法の定める「平等の保護」を犯すもので「違憲」である、とするものでした。
しかし、そのような判決が出たからと言って、人種差別がすんなりと撤廃されていったワケではありません。
この翌年には Alabama州の州都 Montgomeryでひとつの事件が起きました。
Montgomeryから東に 40kmほどのところにある Tuskegee(当時の資料にアクセス出来なかったのですが、最近の統計では人口の 95%が白人、という町です)で 1913年 2月 4日に生まれた女性、Rosa Louise Parks(旧姓 McCauley)は 1955年12月 1日、Montgomery市内のバスの中で運転手の「そこは白人の席だから、向こうの Coloredの席へ移れ!」という指示に逆らったことで「治安を乱した」として拘束されてしまったのです。
アメリカの最高裁はこの逮捕自体を「違憲」である、と裁定したのでしたが、市営バスは座席の分離を改めようとはしませんでした。
これに対し、当時バプティスト教会の牧師だった Martin Luther King Jr.*に指導された黒人たちによる市バスのボイコット運動へと拡大してゆき、南部に根強くはびこっている人種差別の存在を全国レヴェルにまで周知せしめることとなったのです。
*─ Martin Luther King Jr.は 1929年 1月15日、Georgia州の Atlantaで、やはりバプティスト教会の牧師であった父、Martin Luther King Sr.と母 Alberta Williams Kingの間に生まれています。1948年には Morehouse Collegeを卒業、続けて Crozer Theological Seminaryに進み 1951年にはそこから Boston大学に入学し、まさに 1955年、哲学の学位を手にしたばかりだったのです。
そしてその直前の 1954年には Montgomeryの Dexter Avenue Baptist Churchの牧師となっていました。
この Rosa Parks事件に対抗するバス・ボイコットを主導する中で 1957年には Southern Christian Leadership Conferenceを設立し、いわゆる「公民権運動」のリーダーとして活動してゆくこととなります。さらに学生を対象にした Students Nonviolent Coordinating Comitteeも作り上げましたが、これは Nonviolent=非暴力、という表題から連想されるように、インドのガンジーから影響を受けたもの、とされています。
ただし、その「非暴力」方針に飽き足らず、より「実力行使型」のラジカルな分派もやがて派生しては来るのですが・・・
このムーヴメントのきっかけとなった Rosa Louise Parksは、1960年代には Detroitに移住しています。
ただし、このような隔離された座席にまつわる抗議行動はどうやら Rosa Parksが最初、というワケではなかったようで、およそその 11年前に、大西洋に面し、アメリカ建国以前には英国の統括する地であった Virginia州 Gloucesterから、その北東にあたる Maryland州 Baltimoreに向かうグレイハウンド・バスの中で、当時 27才の女性、Irene Morganがこれも同じように白人に対して席を譲らなかったことによって逮捕されています。
この時には、差別を容認する州法の違憲性を争うのではなく、州境を超えて運用されているグレイハウンド・バス内での事件である点に着目し、州境をまたぐ通商行為と見なして、一般通商に関する法規は州法によっては規制されない、という「絡め手」から彼女の無罪を勝ち取っています。これ以来、州境を超えて運行される交通機関内においては、白人・非白人の分離座席は撤廃されることとなったのでした。
ところで Detroitに移住した Rosa Parksは 1994年に強盗に襲われています。襲ったのは Joseph Skipperという黒人で、Rosaは「あなたはワタシが誰だか知っているの?」と尋いたのですが、犯人は「知ってるけど、それがどうした」と殴りつけたことが判明し、非難を浴びました。
それとはカンケー無いのですが、Rosaは 1999年にアメリカ議会から人種差別に対する闘争を評価されて金メダルを授与されています。
Rosa Parks事件当時、Sylvesterはまだ 11才くらいで、はたしてどの程度、事件に対して認識していたでしょうか?しかも、南部ではなく、比較的開放的な西海岸で、しかも造船を支える労働者層の多い地区では、南部諸州の州都のように「保守的な」白人層が圧倒的支配力を発揮している場所とは、そのテンションが違っていたかもしれません。
続いて起きた事件として重要だったのは、1957年に Arkansas州 Little Rockの Central High Schoolで起きた当時の州知事 Orval Eugene Faubusによる黒人生徒の登校を実力で阻止しようとした件でしょうか。
これは Rosa Parks事件の一年前に、Memphisで公園内の人種による立ち入り制限区域を設けること自体が「違憲である」と判断した最高裁の判決に基づき、それまでは黒人子弟の入学そのものを認めていなかった学校に黒人の学生が登校しようとしたのに対し、州知事が州兵を出動させて学校前を閉鎖しようとしたものです。
もちろん、その行為は連邦大陪審並びに最高裁の決定に反旗を翻すものでした。
時の大統領、Dwight D. Eisenhowerはこれを違法と認め、逆に連邦軍を出動させて、黒人の入校を阻止していた州兵を「排除」しました(というより、軍事的ハイアラーキィからいって、連邦軍の前では州兵は「自動的に」連邦軍に「吸収」されるワケで、その時点でロック・アウトは不可能となり、逆に黒人生徒が無事に通学できるように「守る」立場になる!)。
このようにして 9月 4日には 9人の黒人生徒は学内に入ることが出来たのですが、その結果、9月23日、登校して来た 9人が見たものは、学校の前に詰めかけた攻撃的な白人の千人を超える暴徒でした。いったんは市警察の護衛で校舎に入ることが出来ましたが、暴徒による騒乱が激しさを増してきたために混乱を避けて退出しています(一説では実力で排除された、とも言います)。
この事態を受けて Eisenhower大統領は翌日、Fort Campbellの米陸軍・第 101空挺部隊を投入し、9人の生徒の登校を「護衛」したのでした。
この事態の推移はアメリカ国内はもとより、全世界の注視を浴びることとなり、そのような「世界が見ている」という圧力が、もしかすると頑迷な「南部主義者(?)」たちにも「差別撤廃」が歴史の流れだ、と思い知らせることになったのかもしれません(ま、いまだにそーは思ってないのがイッパイいそうですが)。
この時の 9人の生徒は、後に Little Rock Nineと呼ばれることになります。
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5&10¢ Shop
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Little Rock Nineは、極めてドラマチックな展開で、世界中から注視を浴びましたが、続く 1960年の Woolworth Lunch Counter事件は少し様相が違います。
でも、その前に・・・
いま、日本では百円ストアがスゴい勢いで店舗数を増やしていますよね?
実は 1911年、すでにアメリカでは F.W. Woolworthによって六店舗の「単一価格販売店」がスタートしておるのですよ。
それは five-and-ten-cent storesと呼ばれ、その発足当時には、いまの百円ストアとは「決定的に違う」特徴を持っていました。
後にはその方式から脱するのですが、最初の five-and-ten-cent storesでは、商品は並んでおらず、客がカウンターでリストから欲しい商品を店員に言うと、カウンター内および背後のストックヤードからその商品を出してくる、というシステムをとっていた点でしょう。
人件費が高騰している現在ではとても考えられないような「対面販売」をしていたワケですね。
この、どの商品も 5セント、あるいは 10セント(当時の GDPを考慮すれば、おそらく現在の 50〜70円くらいと 100〜150円相当の単価ではなく、もっと上のレンジになるのかもしれません)という固定価格で販売する、というこの形態は、その安価さ(あるいは「安価感」か?)から大衆に受け容れられ、当然、他社による、この業種への新規参入も相次いでいます。
20世紀の前半において、この分野では Woolworthを追うように Kress Stores、Kresge's、Alco-Duckwall Retail Storesなどが次々と出現し、もちろん、それによって従来の個人の小売店が駆逐されたのも、最近の日本での例と似ていますね。
この Woolworthは 1997年 7月17日には傘下の 400にもおよぶ F.W.Woolworth five-and-ten-cent storeをすべて整理し、そのジャンルから撤退しています。
ところで、それらの five-and-ten-cent storeは最初のカウンターのみの店舗から、現在の百円ストアのように店内に商品を陳列(というよりは「山積み」という表現がふさわしいのでしょうが)するようになり、また、客数の伸びにつれて、ファースト・フードのキッチン・カウンターも設け、客はそのカウンターで、あるいはそこからテイク・アウトして Lunch Courtと呼ばれる屋内の広場に用意されたテーブル席で食事も出来る、というシステムが出来上がっていくことになります。
大西洋に面した North Carolina州の中でも三番目に人口が多い内陸の町 Greensboroにあった Woolworthのランチ・カウンターの「白人指定」の席に 1960年 2月 1日、4人の黒人学生が座り込んだことからまたひとつの事件が起きています。
Woolworthは、そこが黒人の座るべきところではない、という理由でサービスを拒否しました。それに抗議した学生は、そこに「座り込み」を始め、座り込みはその規模を拡大し、座り込みに参加できない学生たちは衣服や食料などの援助を続けています。
そして、このとき、最も重要な変化としては、その座り込みに「おおっぴらに」白人の賛同者も参加した、という点でしょう。
支持する広範囲な層による「不買運動」と、連日の報道によるダメージは Woolworthにとっても深刻なモンダイであったことは確かで、この数ヶ月に渡るボイコットによって Woolworthはもとより、同業の他社もランチ・コートあるいはランチ・カウンターの「白人指定」を撤廃することになりました。
この事件が起きる元となった Woolworthのランチ・カウンター(レプリカじゃなく、現物!)は現在、Smithsonian Institution*に保存・展示されています。
*─ James Smithson;イギリスで 1765年に生まれた鉱物学および化学者。彼の資産(およそ 50万ドルと言われています)は遺志により、アメリカの文化や知的財産の保全を目的とした協会を設立することに使われ、それによって 1846年、Smithsonian Institutionが発足しています。ライト兄弟の飛行機、キティ・ホークなどが保存・展示されている。
あ、そうそう、ケッキョク、英国人の彼がなぜアメリカにそのような寄付をしたのか、はホントのところ判っていないみたいですよ。
さて、この頃の Sylvester・・・いえいえ、もう、あのニックネームを奉られた後ですから Slyでいきましょ。
彼はなにをしていたでしょか?
正確な年月日が判明しないので、確実なことは言えないのですが、Joey Piazza and the Continentalsのメンバーとして活動もしていた高校から Vallejo Junior Collegeに進み、器楽演奏としてはトランペットを専攻し、さらに音楽理論と作曲手法を学んでいます。時期的にはこの Junior Collegeか、あるいは、そこからさらに D.J.の基本を学ぶために入った Chris Borden School of Modern Broadcasting(どんな実態なのか調査しようとしたのですが、資料が浮上して来ません。もしかすると、「各種学校」のレヴェルなのかも)でベンキョーしているあたりだったのかもしれません。
1962年、University of Mississippi( 1848年に創設された同州内ではもっとも歴史のある大学で「 Ole Miss」が愛称。同大学内には全米一の規模を誇るブルース・ミュージックの記録を持つ)に一人の混血男性が入学することとなりました。
James Howard Meredithは Mississippi州の州都 Jacksonから 1時の方向に 100kmほど離れた Attala郡の Kosciusko(人口は 1万人に届いていない小さな町で、黒人と白人が「半々」に近い)で、1933年 6月25日、ネイティヴ・アメリカンと黒人との間に生まれています。
高校卒業後すぐにアメリカ空軍に入り、1960年に除隊すると、Jackson State Collegeで 2年間学んで、いよいよミシシッピー大学へ、という選択だったため、この時の彼はすでに 29才になっていました。
この「黒人」がミシシッピー大学に入学するのを阻止するため、当時の州知事、Ross Robert Barnett( 1898年 1月22日生まれ、コイツはこの時だけじゃなく、その翌年に、ミシシッピー州立大学のバスケット・ボール・チームが「黒人もいる」 Chicagoの Loyoraチームと対戦することも妨害しようとしています。もっともミシシッピー州立大学のチームは知事の意向を無視して試合をしていますが。1987年11月 6日死亡)は実力で大学を封鎖して 9月20日の学籍登録を阻止しました。それに対し、当時の大統領、John Fitzgerald Kennedyはなんと州兵 20,000人を投入し、Meredithを学内に入れることに成功していますが、その際の騒乱で 2名の死者が出ています。州兵側の 48人を含み負傷者も 300人といわれており、いかに「騒然としていたか」が判ると思います。(一部では 1963年の Dallasでの暗殺は、この時の一件が絡んでいる、と見るひともいるようですが・・・)
James Howard Meredithは Ole Missを 1963年 8月18日に卒業し(おそらく、教養過程に当たる部分を、その前の Jackson State Collegeで履修していたために、専攻した科の単位を満たすだけで卒業出来た、ということかもしれません。今回はそこまで調べていないのであまり確かなことは言えないのですが)、そこからいったんアフリカのナイジェリアの University of Ibadanで 1964年から 2年間、またアメリカに戻って、こんどは Columbia Universityに 1966年から 2年間在籍し、法律学を修めています。
一方ではアメリカ国内で高まってきた公民権運動にも積極的に参加し、1966年には Tennesse州 Memphisから Mississippi州 Jacksonまでの大行進の先頭に立っている時に「何者かによって」狙撃され、負傷する、という経験もしました。
ただ、その彼も共和党員となって政治を目指したあたりから保守化が激しくなり、南アフリカの人種差別政策を牽制するための経済封鎖や、Martin Luther King Jr.の誕生日を国民の休日に、という法案にも「反対」するようになってしまいました。
なんだかなあ。
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Wallace the
Segregationist
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アメリカ合衆国の南東部、左右の Mississippi州と Georgia州の間にあり、しかしフロリダ州に足元を掬われて、左足のつま先だけがやっと Gulf Streamに届いている、といった格好の Alabama州は、やはり典型的な南部気質が根強いところで、たしか 1962年のアメリカ映画、「アラバマ物語(原題は To Kill A Mockingbirdだったと思う・・・ピューリッツァー賞を受賞した Harper Leeの小説が原作で、Alabama州の架空の町 Maycombを舞台としたもの)」という作品でも、黒人の冤罪を晴らそうとした白人の弁護士までが白人社会の中で敵視されるようになっていく状況が描かれていました。
そのストーリィ自体は大恐慌の時代を背景としたものだったのですが、それを「敢えて」公民権運動の盛り上がりに合わせて製作・発表したプロデューサーのアラン J.パクラ(後に監督として「大統領の陰謀」や「ペリカン文書」を手掛ける)もなかなかのものです。
その Alabama州において、1962年に州知事に当選したのが George Corley Wallace( 1919年 8月25日生まれ。1998年 9月13日死亡)でした。
1963年 6月11日、州都 Montgomeryから北西におよそ 150km、また州内最大の都市 Birminghamからは西南西にほぼ 80kmの位置にある Tuscaloosa(白人が少し黒人よりも多い)という街の、市内を東西に流れる Black Warrior Riverの南岸に敷地を持つ 1831年に創設された歴史ある大学、University of Alabamaに二人の黒人学生、Vivian Maloneと James Hoodが入学することになると、州知事 George Corley Wallaceは「自ら」大学のドアの前に立ちはだかって、その登録手続きを阻止しようとしたのでした。
しかし、連邦執行官たちに対抗することは出来ず、引き下がっています。
この一件は彼を「差別主義者」そして「タカ派」として印象づけることとなり、もちろん、その後の数々の政治的動向も影を落としたとは言え、ついに合衆国大統領に、という彼の野望は実現されることなく終っています。
この University of Alabamaの次の日、隣の Mississippi州の州都 Jacksonで NAACP─ National Association for the Advancement of Colored People─全米黒人振興協会(でも正しくは「黒人」だけじゃなく、「有色人種」だよねー)のメンバーのひとり Medgar Eversが白人の差別維持主義者 Byron De La Beckwithによって妻子の「目の前で」殺害されました。(このほぼ一週間後の 6月19日に Kennedy大統領は HR 7152という人権法案を議会に上程)
Medgar Eversは Mississippi州の州都 Jacksonから東に伸びるハイウェイ 20を 100kmほど行ったところにある(この Hywy20はアラバマ州境で、それまで向いていた Montgomery方向から少し左に曲がり、Birminghamに向かいます。そしてその途中には Tuscaloosa) Decaturという人口が 2000人にも満たない小さな町で 1925年 7月 2日に生まれています。彼はすでに同州内の Alcorn State University(注;これは現在の呼び名であって、1974年に当時の州知事 William Wallerが手を入れるまでは Alcorn Agricultural and Mechanical Collegeと呼ばれていたハズ。当初、白人のための学校だったが 1871年、黒人も受け容れる州内最初のカレッジとして再スタート。)を卒業していたのですが、さらなる向上のために University of Mississippiのロー・スクール( Lowじゃなく Law─法律ね)を目指しました。
University of Mississippiと言えば、そう、James Howard Meredithの入校をめぐって二人の死者まで出した、あの大学です。
Medgar Eversはその前のランチ・カウンター事件でも、その Meredith事件でも NAACPを通じて差別撤廃の戦いを行ってきていました。
はたして、そのことも関係していたのかどうかは不明ですが、Eversは入校が認可されなかったのです。
おそらく、そのことでまた NAACPが「盛り上がる」ことを阻止しようとしての暗殺だったのかもしれません。この暗殺犯 Beckwithは「すべて白人」で構成される陪審によって二度も放免されましたが、1990年代に入って再審がスタートし、国立 Arlington墓地に埋葬されていた Eversの遺体は再鑑定のため掘り返され、その結果、事件から 30年もたった 1994年、ようやく Beckwithの有罪が確定したのでした。
その再審については 1996年に Ghosts of Mississippi という映画にもなっているそうですが、それ、日本でも公開されたのかどうかは「?」です。監督は Rob Reinerでした。
またボブ・デイランも歌にしているそうですが、ディランについてはまったく知らないので Only a Pawn in Their Gameというタイトルだけ書きとめておきます。
その同じ年の 9月15日の日曜日午前10時25分、今度は Birminghamの 16th Street Baptist Churchが狂信的な有色人種排斥主義で行動する秘密結社 Ku Klux Klanの Robert Edward Chamblissによって爆破され、Addie May Collins、Carole Robertson、Cynthia Wesley、Denise McNairの四人の少女(もちろん黒人です)が死亡し、22名もが負傷する、という事件が起きました。Chamblissは教会の地下室に 19本のダイナマイトを仕掛けて爆発させたものです。
当初、本人は無罪を主張していましたが、後に連邦捜査局─Federal Bureau of Investigation─が、重要な証拠類や捜査資料を検察官に対し開示していなかったことが判明し、1977年に「ようやく」殺人罪での有罪が確定し終身刑が宣告されました。
共犯とされた Bobby Frank Cherryと Thomas Blantonも後に終身刑が確定しています(その前に Chamblissは獄中で死亡していますが)。
1964年、Slyは Autumn Recordsとサインして、Slyという名での初の個人名義(と言っても Sly Stoneではなく、Stewartでしたが)のシングル I Just Learned How To Swim / Scat Swimを出していますが、実はその前に Los Angelesのプロデューサー George Motolaに認められて the Biscaynes(あるいは 、Viscaynesとも表記される)というヴォーカル・グループに参加しています。
George Motolaの知り合いの Vic Gazziという男が「いいヴォーカルがいるよ」と紹介してくれたそうなんですが、さっそく Motola自身のレーベル VPMから Yellow Moon / Heavenly Angelというシングル( VPM 1006)をリリースしています。これは San Franciscoではほぼ 7万枚を売るローカル・ヒットとなっています。
最初の録音で Yellow Moonの別テイクもあったのですが、それは後にカップリング曲を Heavenly Angelから Uncle Sam Needs You ( My Friend)に差し替えてリリースされました。つまり同じ VPM 1006ながら内容が異なる二種のシングルが存在することになりますね。
この Motolaの別レーベル Lukeからは Danny Stewart名義で初のソロ作品 A Long Time Away( A Long Time Aloneまたは A Long Time Goneとしている資料もあって、やや混乱しています) / I'm Just A Fool( Luke 1008)というシングルも出しています。
また別レーベルの G&Pからは A Long Time Awayはそのまま流用し、カップリングに Help Me With My Broken Heartというシングル( G&P 901)も出しておりまして、どうもこのあたり、Motolaはひとつのトラックを別レーベル(すべて自分の!)から出すのが趣味なのかもしれませんねえ。
さらに面白いのは A Long Time Awayのバッキング・トラックをそのまま流用して吹き込んだ Are You My Girlfriendという曲と You've Forgotten Meをカップリングして Luke 1009というシングルを出していますが、フシギなことに、またもやカップリングだけを替えて Do You Rememberとのカップリングで同じ Luke 1009として出しています。まったく同じ曲をレーベルあるいはシリアル・ナンバーを変えて売る、という例はよくありますが、まったく同じレーベル&シリアルで違う内容のシングルが存在する例というのは稀でしょう。
このあと、Trop 101というシングル( Stop What You Are Doing / I Guess I'll Be)を出していますが、名義が二種類あって、ひとつは the Viscaynes、そしてもひとつは the Viscaynes & the Ramblesとなっていますが、Ramblesについては不明です。
ここから 1964年の Sly Stewart名義のものまでリリースは確認されていません。
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I Have a Dream
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1963年は、しかし 11月になって起きたアメリカばかりか世界を揺るがした「大事件」によって記憶されることになってしまったのでした。
1963年11月22日の白昼、在任一千日を超えたばかりのアメリカ合衆国第 35代大統領、John Fitzgerald Kennedyが Dallas市内で狙撃され、死亡したのです。
もっとも若くして就任した大統領であり、もっとも若くして在任中に死亡した大統領である Kennedyは先日採り上げた James Howard Meredithの Ole Miss入学の際には実力で暴徒を制圧していますが、かと言って、人権法の制定に関しては決して積極的な方ではなかった、と言われています。
皮肉にも、彼が上程した数々の法案の審議が促進されて黒人差別や性差別などの禁止が織り込まれた人権法案が成立したのは、Kennedy大統領の副大統領であった Lyndon B. Johnsonが大統領に昇格してからのことだったのです。
大体においてリベラルな民主党、というイメージが最近では支配的なようですが、当時の民主党には人種差別撤廃など「とんでもない」などと発言してはばからない南部諸州出身議員( South Carolinaの Albert Watsonや William Jennings Bryan Dornを始め、Louisiana州の Joseph David Waggonner Jr.など)が多数いて、結局、人権法案は、むしろ「中道的な」共和党員の賛成を多く獲得したことによって成立した、というのが実態でした。
1960年の大統領選挙の際には「人種差別の撤廃」や「雇用機会の均等」、「選挙権・被選挙権の開放」を標榜し、その選挙活動に、獄中にあった Martin Luther King Jr.(その時は直前の Atlantaのデパートでの座り込みによって逮捕され、1956年に犯した交通違反に基づく執行猶予中であったため、4ヶ月間の強制労働を命ぜられていました)の妻を招いた甲斐もあって、黒人票の 68%を獲得したことによって指名を獲得した Kennedyでしたが、当時の民主党内「右派」は、共和党のそれよりも質・量ともに無視出来ないプレゼンスを持っていたようで、議会対策としてはむしろ、共和党の中道派を取りこむ方が可決への近道、という皮肉な状況だったのです。
と言うところで、Martin Luther King Jr.の 1957年以降の動きを・・・
1957年 3月 6日にはアフリカの新興独立国 Ghanaの独立式典に出席し、大統領 Kwame Nkrumah(どう発音するのか?なんて尋かないでねん)と会談しています。また同年 6月13日には Ralph D. Abernathyとともに Dwight D. Eisenhower大統領の副大統領、Richard M. Nixonと面会しています。
1958年 6月23日には、他の公民権運動のリーダーたちと当時の Dwight D. Eisenhowerと面会を果たしています。そして 9月17日には著書 Stride Toward Freedom: The Montgomery Storyを発行していますが、その三日後には New Yorkの Harlemにあった Blumsteinデパートで自著のサイン会を開いていたのですが、そこで Izola Ware Curryという男に刺され、緊急搬送された Harlem Hospitalの医師団は彼の胸部から刃渡り 18cmほどのレター・オープナーを除去することに成功しました。
1959年の 2月にはインドを訪れネール首相とも会談し、ガンジーの後継者たちとも会っています。彼の非暴力主義への傾倒はさらに強化されたのではないでしょうか。
1960年 2月 1日には一家を挙げて Montgomeryから Atlantaに移り、父が牧師をしていた Ebenezer Baptist Churchで助手を務めることになります。
5月25日から始まった彼の税金にまつわる不正行為の有無をめぐる裁判では、28日に、白人の陪審員は「無罪」と表決。
6月23日には New Yorkで大統領選の候補であった John Fitzgerald Kennedyと「プライヴェート」に会合を持ちました。大統領選への支援や、公民権運動への支持、といった内容ではなかったかと「思われ」るのですが、なんと Martin Luther King Jr.は同年 10月19日、Atlanta市内の Richデパートで抗議行動のための座り込み中に逮捕されてしまいます。上の方でも触れていますが、1956年の交通違反に関する執行猶予期間内のことだったため、そのまま収監されてしまったため、選挙の応援をすることが不可能になっています。2000ドルの保釈金を積んで開放されたのは 10月27日のことでした。
1961年には既に大統領となっていた John Fitzgerald Kennedyに10月16日に面会し、人権法案の促進を直訴しています。その年の 12月16日には Georgia州 Albanyにおいて Ralph Abernathyや他の活動家 264人とともに、抗議行動中に逮捕されています。
1962年 9月28日に Alabama州 Birminghamで行われていた SCLCの会議中に「アメリカ・ナチ党員」に襲われ、顔面を殴打されました。
1963年になって、4月にはまたもや収監され( 12日〜19日)ていますが 5月 7日には Birminghamで行われた 4,000人の抗議デモに対して警察署長 Eugene "Bull" Connorは高圧放水や警察犬を使用し、その映像が報道されることによって、国内外からの批判が吹き出します。そして 8月28日、ワシントン大行進(おそらく 20万人の参加があったとされています)が行われ、ここでの彼の演説 I Have a Dreamは、John Fitzgerald Kennedyの大統領就任記念演説 Togetherとともに、「曲」としてリリースされることになったのでした。この行進の後、彼と他のリーダーたちはホワイトハウスでケネディおよび副大統領の Lyndon B. Johnsonと面会しています。
さらに、Birminghamの教会爆破事件の被害者の葬儀に弔辞を送っています(彼女たちの葬儀は、Addie Mae Collins、Carol Denise McNair、Cynthia Dianne Wesleyの三人と、Carole Robertsonひとりの葬儀が分離して、それぞれ 9月18日に行われたようですが、統合されなかった理由は判明しませんでした)。
ところで、Kennedy政権は、Martin Luther King Jr.のプレゼンスに敬意とともに警戒心も抱いていたらしく、時の司法長官 Robert Fransis Kennedyは、FBI(連邦捜査局)に対し、彼の電話回線を「モニターする」許可を与えています。
そして 11月22日・・・
それまでは公民権に対しては積極的に改善しよう、という動きが見えなかった、それまでの副大統領、Lyndon B. Johnsonが大統領に昇格するや、急に積極的に共和党議員をも巻き込んで議会工作を始めるのだから、人間ってのは判りませんね。
ことこの分野に限って言えば、法制化の速度は Kennedyより Johnsonの時代の方が早かった、と言うことになります。
とは言え、アメリカ国内、いえ、世界的に見ても John Fitzgerald Kennedyの人気は、Johnsonなんか(シツレイ)が足元にも及ばないレヴェルなんですからねえ。
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Autumn
in California
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公民権運動にまつわる南部での騒乱、そして John Fitzgerald Kennedyの暗殺、とアメリカが大きな混乱の中にあった 1960年代初頭の 1/3でしたが、ウエスト・コーストという、ある種「ユルい」場所にいたせいか、この期間に Slyがなんらかの政治的な行動をした、という記録はいっさい無いようです。彼はこのころ、Chris Borden School of Modern Broadcasting(この学校を開いていた Chris Bordenというのは Oakland高校を卒業後、Arizona州の KTKTに 1959年にはいたことが判っていますが、後に地元 Oaklandの AM放送局 KEWB移って来ています。それ以降も KSFO、KNBRと移っていった D.J.。後に映画の方に転向し、一方でこの放送業務に関する学校を設立しています)で D.J.技術を学んでいた(ってことになってますが・・・)。
1964年の10月に( 10月?) Slyはそこを卒業(つーよりは修了かな?)しているのですが、その 1964年の 1月18日には「新」大統領 Lyndon B. Johnsonは Martin Luther King Jr.を始めとする人権活動家たちと会って、彼の推しすすめる War on Poverty─貧困との戦い(?)についての支持と理解を求めています。このあたりからジョンソンの「やる気」が出てきてるよな気がしますねえ。
そして同年 3月26日には、ある意味「歴史的な」会見がありました。
いわば「最もラジカルな」差別撤廃論者 Malcolm Xが、非暴力路線の総帥たる Martin Luther King Jr.と Washington D.C.で会ったのです。
しかし、それはふたりにとって「最初」で「最後」の面談となってしまったのですが。
そのキングは 6月11日、こんどは Florida州 St. Augustineの白人専用レストランで抗議したことにより逮捕されています。
Slyは卒業後、KSOLに入り、やがて月曜から土曜までの Night Shift(ま、言わば「夜勤」ですが、逆に「ゴールデン・タイム」とも言えるワケで)についています。当然聴取率のいい時間帯ですから、彼の知名度はすぐに上昇しました。
また、この時期の彼の選曲には「黒人」を意識させるものはあまり無かった、といいますから、広汎な「その時の音楽」を貪欲に聴いていたのかもしれません。
そしてそんな時に出会ったのが、1961年に Philadelphiaから移って来た San Franciscoの人気 D.J.、Tom "Big Daddy" Donahue*でした。
*─ Tom Donahue、生年・出生地不詳。1975年 2月26日没。San Franciscoの AMロック・ステーションの伝説的 D.J.。
パートナーの Bob Mitchellとともに Cow Palaceで早くから(つまり Bill Graham以前に、ね) Rolling Stonesなどのロックのコンサートを行ったり、1966年には Candlestick Parkでビートルズも手掛けています。
またアメリカ初のサイケデリック・ミュージック(というよりはカルチャーか?)のナイト・クラブ Mother'sを San Francisco市北部をほぼ東西に走る Broadway Streetに開きました(そこから南下してくると Little Osaka!や Malcolm X Squareがある)。
D.J.としての 5年間の後、自らのレコード会社を興し、地元のロック・ミュージシャンたちの作品をリリースして全米にサプライする、という役割を果たしています。
その Tom Donahueが興した Autumn Recordsに Slyが関わるようになったのが正確にいつなのか、判然としないところがあるのですが、少なくとも 1964年の Bobby Freeman**のヒット C'mon and Swimのプロデュースをしていた、とする資料がありますので、それでいくと、Slyは例の放送学校を卒業する前から Autumnに顔を出していた、ということでしょうか?
**─ Bobby Freeman; 1940年 6月13日 San Francisco生まれ。14才のときに自分のグループ the Romancersを作り、そこではピアノを担当しています。
続いてダンスにも興味を持ったようで、R&Bグループ the Vocaleersを結成し、Josie labelに Do You Want To Danceを 1958年にレコーディング。これはかなりのヒットとなり一躍 San Franciscoでは名前を知られるようになりました。
その後 Shame On You Miss Johnsonなどの曲をリリースし、1960年には King Recordsから Shimmy Shimmyをリリースしていますが、この Bobby Freeman側の資料によれば、Bobby Freeman「個人」がローカル D.J.だった Slyとサインし、プロデュースさせた、となっておりますから、これが Slyと Autumnの「慣れ染め」かも。
そうして出来た1964年リリースの C'mon and Swimは彼にとっての初ビッグ・ヒットとなり、チャート 5位にまで登っています(蛇足ながら、これが彼の最高ランクのヒットとなってしまったのですが)。彼の代表曲 Do You Want To Danceはむしろビーチ・ボーイズのナンバーとして知られるようになってしまいました。
・・・とゆーことで、この Bobby Freeman側の資料を信じると、最初はプロデュース契約で Autumnに出入りするようになったもののようです。
ところで、その Bobby Freemanと厳密にはどっちが先だったのか、どちらにも正確なデータが無いため、判断できないのですが、同じ 1964年にリリースされて、これまた全国的なヒットとなったのが、結成されたばかりのロック・グループ Beau Brummels***の Laugh, Laughでした。
***─the Beau Brummels;ヴォーカルの Sal Valentinoが作ったグループ、Sal Valentino And the Valentinesは 1962年に初シングルを出していましたが、そこにギターの Ron Elliott、ベースの Ron Meagher、ドラムの John Petersonを加えて名前を Beau Brummelsと改名。San Franciscoの南側の San Mateoのクラブ出演中に Tom Donahueに見出され、Autumn Recordsとサイン。プロデューサーには Sly Stoneを迎えて作られたのが Autumnでのデビュー・シングル、チャート 15位となった Laugh, Laughです。
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Great Society
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Slyがプロデュースしたアーティストとして採り上げた Bobby Freemanですが、アルバム C'mon and Swimを聴くと、ワタクシには、後の Slyのサウンドを髣髴とさせるブラスとギターの「カオス」がすでに感じられるような気がいたします。
ま、ネがダンス・ナンバーですから、Bobby Freemanの歌そのものを「じっくり」聴かせる作りにはせず、「賑やかし」に徹したのでしょうが、フロントの歌には委細構わずコチョコチョ騒ぎまくるバックのギターなど、Slyをよく聴いている方なら、即座にその類似性に思い至るかもしれませんね。
そんな Bobby Freemanでの音に比べると、一見、彼のサウンドとはあましカンケー無さそーに聞こえるのが、次の Great Societyでしょう。
最近ではアルバム King of the Fretless Guitar( Slyが関わっていないアルバムについては「太字の斜体」で表しています)でも、相変わらず(か?)のアヤしい旋律(どことな〜く漂うアジアン・テイストには上海からボスボラス海峡に至る、大乗仏教からヒンズー経由イスラーム圏の香りが・・・)で健在(か?)ぶりをアピールした、かの名曲(か?・・・ってギャグにしちゃいけませんね) Somebody to Loveの作者、Darby Slick。
やはり、と言うべきか、彼は Great Society後もさらにインド音楽などへの傾倒を強め、なかでもインドの Sarod(については http://www.sarod.com/sarod/default.htmで。基本的には三味線と同じく「演奏する」弦もフレットレスで、ブリッジは張った皮の上にあります。違いは弦が四本あり、他にリズムをとるための弦が二本、そしてもっと短い「共鳴弦」がインド音楽の理論たるラーガに沿って 13本張られています。共鳴弦と言っても、Sitarのような「唸り」を発生させるものではなく、もっと「軽い」音。だそうです・・・代表的な名手としては Amjad Ali Khanなど)の奏者 Ali Akbar Khan(おやおや、ちょっと前のカッコ内の「名手」の名前とちょっと違っていますねえ。これが同一人物で表記の違いなのか、それとも、まったくの別人なのか?は調べておりません。それが判らなきゃ落ちつかない、って方はご自分でお調べくださいませ。で、判ったからってお教えいただかなくてもいいんですよー。たぶん、そのころにゃ、ハナシ先にススんじゃってますから「あ、そう。どーも」程度のツメタい返事しかしなさそーです)の影響を受けて、彼自身で開発したフレットレス・ギターに没頭するようになったらしく、このアルバムでは徹頭徹尾ポルタメントを多用した、さりとてブルース系のスライド・プレイとは「明らか」に違うミョーな「世界」を構築しておられます。
たしかに San Francisco周辺のサイケデリック指向というものには、東洋思想(というよりはそれをカタったアヤしー「グル」たちの妄言だったりもするよーですが・・・)が影を落としているようで、同じ Great Societyの White Rabbitなんて「漠然とした」アジア風味のメロディが随所に出て来ますよね。
さて、Darby Slickですが、どうも、生年・出生地が見当たりません。必死で探せば見つかるのかもしれませんが、ここ、言わば「副線」ですから、あまり突っ込んでおりません(それに前述のアルバムから推測するに、彼の熱烈なファン、なんてのがここを読んでいただいている方々の中におられるとも思えないし、ね)ただ、育ったのは San Franciscoから南東におよそ 45kmほどの、湾に面した Palo Altoという町だったようです。
「家の隣に色白で太った Grace Wingってオンナのコがいた・・・」と Darby Slickは自著 Don't You Want Somebody to Love :Reflections on the San Francisco Sound (SLG BOOKS ISBN 0-943389-08-9)で書いていますが、これはモチロン、1961年 8月26日に結婚した彼の兄 or 弟(まったく英語ってヤツは!)の Gerald "Jerry" Slickの「嫁はん」がその Grace Wingであり、イコール、義理の姉 or 妹となった、Grace Slick*についての記述なのですねえ。
*─ Grace Barnett Wingは 1939年10月30日、Chicago近郊の Evanstonあるいは Highland Parkで生まれたとされています(ちなみに Chicago→ Evanstonは新宿に対する立川、Highland Parkは八王子って感じかな?方角は湖岸沿いに北だから、かなりちゃうけど)。父は Ivan W. Wing、母は Virginia Barnettでそっから Grace Barnett Wingとなったんでしょね。
1957年には New Yorkの Finch Collegeに入り、1958年からは University of Miamiで美術を専攻しています。卒業後、I.Magnin's(これってファッション系のカタログ通販業者かな?どうやら最近では Macyの西海岸支社みたくなってるよーですが、よー判らん!)のモデルをしてたそうなんで、それでウエスト・コーストに来たものと思われます。
ただ、こっから先はちと混乱してて、Jefferson Airplaneの Matrixでのデビューを客席で見てて自分もバンドを作ろうと思った、ってえ記述もあれば、Jefferson Airplaneのオーディションを受けに Matrixに行ったが、落ちたんで Great Societyを作った、とか、それとはカンケーなく Great Societyは「あった」なんて説まであって整理しきれません。
ま、どっちにしても Great Societyにはギターとして Jerryの兄弟である Darby Slickが加入し、Somebody to Loveが誕生したワケですね。そして Grace自身も White Rabbitを。
Sly側の資料では、この Great Societyの Autumn Recordsへの録音を 1964年にまとめて(つまり Beau Brummelsや Bobby Freemanと一緒にして)る場合が多いですが、 Great Society側ではそれを 1965年としているものが大半です。
ここは、Great Society関連資料の大半が採用している 1965年をここでは尊重いたしましょう(だって Great Societyの「御披露目」は 1965年10月15日、ノース・ビーチの Coffee Galleryで行われた、なんて記録もあるんだもの)。
ところで、みなさまはそのオリジナルの Somebody to Love(ま、実際にはタイトルも違ってて、Someone to Loveなんですが)をお聴きになったことはございますでしょうか?
残念ながら、途中から始まるために、そのもっとも特徴的なイントロの「アルペジオっぽい出だし」を味わっていただけないのがココロ残りですが、初期の Graceのヴォーカルと、曲のプロトタイプが ARTIST DIRECTで試聴できます。
http://www.artistdirect.com/nad/store/artist/album/0,,226676,00.html
しょーじき、Bobby Freemanに比べると、後の Slyにつながりそなとこはあまし感じられませんでしたねえ。それはともかく、Slyが手掛けたとされるこの Great Societyの一連の作品はどれもヒットには至らず、後に Graceが Jefferson Airplaneの Signe Andersonに替わってリード・ヴォーカルとなったことによってよーやく陽の目を見ることになったワケでございます。それをプロデュースのせいにするか、メンバーの実力の差と見るか?
それはともかく、Sly自身も Sly Stewart名義で I Just Learned How to Swim / Scat Swim( Autumn 3)というシングルを 1964年に出しているのですが、これってモロ Bobby Freemanの C'mon and Swimへの(良く言えば)側方支援、(悪く言えば)小判鮫じゃん?Bobby Freemanのオリジナルにくらべると、Scat Swimなんてエラいジャジーな仕上がりにはなってますが。
そして翌1965年には、単純に「 Sly」という名前で Buttermilk Pt.1 / Buttermilk Pt.2 ( Autumn 14)と Temptation Walk Pt.1 / Temptation Walk Pt.2 (Autumn 26)を出しています。
この Buttermilkなんて聴くと、キレのいいクリアーなギターのカッティングなどに「やや」 Great Societyや Jefferson Airplaneなどにも見られるリズム・カッティングの影響があるように思うのはワタシだけでしょーか?
Temptation Walkの方はむしろ、その後の Family Stoneにつながる「音の塗り込め方」をしてるように感じます。女性(?に聞こえる)ヴォーカルの活かし方とかもね。
その後、彼はトランペッターの Cynthia Robinsonを加えたグループ、the Stonersを結成し、さらに弟の Freddie Stewart(ギター)と、ドラムの Greg "Handsfeet" Erricoを加えた Freddie & the Stone Soulというグループも作っているのですが、この二つのグループの録音は存在しないようなので、どんな音だったのかはちと判りません。
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Invoked
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ところで Autumn Recordsでの Slyが関わったミュージシャンとしては、他に the Mojo Menってのがおるらしいんですが、みなさんご存知ですか?
どーやら初期にはブリティッシュ・サウンド(?)を目指してローリング・ストーンズやゼムのカヴァーなどしておったバンドらしいんですねえ。
Autumnから出した Dance with Meや She's My Baby、そしてストーンズのカヴァー Off the Hookなんてのも「ちょっとしたローカル・ヒット」とはなっていますが、ピークを迎えた(?)のはその後、同じく Autumn所属の San Franciscoのフォーク・ロック・バンド the Vejtablesから、曲も作り、自らも歌う女性ドラマーの Jan Erricoが加入して Repriseに移籍してからのことになります。
とは言っても、Mamas & Papasの二番煎じみたいなサウンドだったらしく(音質のワルいサンプルで試聴した限りじゃ、ホント「けっ、フォークじゃん!」って切り捨てられてもモンクは言えないよなサウンドですなあ。あ、ここでの「フォーク」はケーベツ的ニュアンスで使われておりますので悪しからず。フォークならフォークでいいんですが、それがロックに色目を使うとロクなことおまへん。いちおー Hanky Pankyなんて曲もやってはいるんですが、まあサマになってないことおびただしい・・・)、結局バッファロー・スプリングフィールドなんぞのカヴァーで一度注目された程度で「消滅」してしまったようです。
ハナシを少し前に戻しまして、Martin Luther King Jr.のその後です。
1964年の11月に彼は FBIに対して、公民権運動家たちを守ろうとしていない、と非難し、それに対して FBIの長官 J. Edgar Hooverは Martin Luther King Jr.を「我が国で最も悪名高き嘘つき」と応酬し、さらに SCLCを「コミュニストの手先で、モラルをダラクさせるもの」と発言しています。そして、まさにそんな司法長官の顔に泥を塗るように、オスロのノーベル賞審査会は Martin Luther King Jr.に対し「ノーベル平和賞」の授与を決定したのでした。
これは言わば「世界はアメリカ政府の公民権運動に対する態度に失望している」ことをも意味していたのですが、アメリカ国内では相変わらずの迫害・虐待が横行していました。
1965年は King一家が Atlantaに移動した年でもありますが、3月 7日には Alabama州 Selmaの Brown Churchをスタートし、80km東の Montgomeryまで歩く「選挙権」を要求する 600人ほどからなる行進が Edmund Pettus橋に差しかかったところで、保安官代理やアラバマ州警察に「襲撃され」警棒による殴打、催涙ガスの発射などにより行進を「暴力」によって阻止された BLOODY SUNDAY事件が起きています。そしてこのときも FBIは記録としての写真撮影まで行っているのに、この暴力を「止める」ような働きかけは一切行っていません。
二日後に Kingは Brown Churchから橋までの道を歩き、その意味を国内外に知らせようとしています。またこの事件のニュース映像フィルムが各地の映画館(当時は上映プログラムの中にニュース映像も含まれていたのです)で上映されるにつれ、警察側の過剰な暴力が国内外の批判を浴びるようになりました。
そして、その間にも法廷で「公共のハイウエイをデモのために占有することの是非」が審議され、最終的には、たとえハイウエイであっても、正当な主張のために行われる行進は、これを認める、という連邦地裁判事 Frank M. Johnsonの判決によって以後、それを口実に行進の参加者たちに暴力を振るうことが出来なくなりました。
そこであらためて行進は 3月21日に 3,200人もの参加者で再開され、日に十数キロを歩いては路傍で野宿する、という行程で 25日に Montgomeryに到着したのですが、そのときには途中から参加した人々によって、その数は実に 25,000人にも達していたのでした。
もちろん、ハイウエイの「不法占有」などというのは「最初から」行進を実力でツブしてやろう!という警察の「口実」に過ぎず、「白人に逆らったらどうなるか、思い知らせてやる」というのが襲撃の目的ですから、その行為は完全に逆効果だったことになります。
ついでながら、このときの州知事はモチロン Wallace。
そしてこの年、Lyndon B. Johnsonによって選挙権も含む人権法案が成立しています。
続く 1966年、2月に Kingは Chicagoで Nation of Islamの指導者 Elijah Muhammadと会見。
6月 7日、Tennessee州 Memphisから Mississippi州 Jacksonへの March Against Fearをおこないますが、Memphisでは、行進に参加していた James Meredithが狙撃され、負傷しています。
このあたりになると、人種差別撤廃を「法規上でも」明文化して国際的にも評価されたがっている合衆国政府に、徐々に州政府も押し切られるようになって来たためか、それが気にいらない保守的な白人層の中では暴力的に先鋭化・孤立化する傾向が出てきます。
さて、一方の Sly君は、ってえと、Cynthia Robinsonとの the Stoners、弟や Greg Erricoと組んだ(あ、この Gregと、the Vejtablesの Jan Erricoのカンケーは「さっぱ判りません」。おそらく赤の他人じゃないでしょか) Freddie & the Stone Soulsからいよいよ・・・
って、その前に、どーも Billy Prestonの吹き込みにも参加してるよーです。
In the Midnight Hour / Advice( Capitol 5660)と Phoney Friends / Can't She Tell( Capitol 5797)の二枚のシングルに with Sylvester Stewartのクレジットがあります。
ここでの Adviceってのが後の Whole New Thingに収録された Adviceのオリジナルだ、と言われていますが、それがホントに同じものかどうかは判りません。なんせ、この Billy Prestonのほーを聴いたことがないもんで。
そして 1967年、Slyはギターとして弟の Freddie Stewart( 1946年 6月 5日 Vallejo生まれ)、そしてその Freddieにとっては姉、Slyにとっては妹である Rosie Stewart( 1945年 3月21日 Vallejo生まれ)をピアノに、さらに、かって the Stonersで共演したトランペットの Cynthia Robinson( 1946年 1月12日 California州 Sacramento生まれ)を招き、そしてサックスに Jerry Martini( 1943年10月 1日 Colorad生まれ)、さらに、いとこの Larry Graham( 1946年 8月14日 Texas州 Beaumont生まれ)のベース、ドラムは唯一の白人、Greg Errico( 1946年 9月 1日 San Francisco生まれ)というメンバーで「遂に」 SLY & THE FAMILY STONEが「始動」したのです。
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BassBase 600
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1967年に結成された、この、まったく独自のサウンド・ワールドを造り上げたグループ、Sly & the Family Stoneですが、とあるところで、「 James Brownがファンクの革命を起こし、それを完成させたのが Slyだ」なんて解説を読んだことがあります。
ま、ワタクシとしちゃあ、「J.B.はファンクを改革したが、Slyは Sly & the Family Stoneというまったく新しいジャンルを、ブラック・ミュージックの中に造り出したのだ」と言いたいですね。
別に J.B.を貶めるつもりはないですが、J.B.がやっていることと Slyのやっていることってのは「位相」が違い過ぎるんですよ。ま、なんでも、どっかに分類しなきゃ「落ちつかない」のかもしれないけど、やはり中には、ジャンルでは語れない、それこそ、そのアーティスト名そのものが「ジャンル」ってのがいると思うんですよ。
Louis Jordanだってそうでしょ?既成のワクで説明しきれるもんじゃおまへん。あれは「Louis Jordan」っていう音楽なんですよ。
同様に Slyの音楽を細切れに裁断して分析してみたところで、普遍的な音楽言語で「この音楽はいったいなんなんだ?」ってことが語れるワケはありません。
Sly語に慣れ親しんで、その世界に浸ってみなければ判らないことって多いんじゃないのかなあ。
そして、その Sly & the Family Stoneの世界を造り上げるにあたって、とても大きなプレゼンスを持っていたのが Larry Grahamではなかったでしょうか?
いわゆるファンク専門(?)のベーシストからの評価では、彼以上に重要なプレイヤーってのもいるのかもしれません。
しかし、トータルなサウンドの中におけるベースの意味や、それ以上に「ベーシストの意味」として考えた場合、彼がただ「(テクニック的に)スゴいベーシスト」というのではなく、まずミュージシャンとしての資質としてユニークな存在なのだ、と考えています。
Larry Grahamは Slyと同じように、生まれたのは Texas州でした。
メキシコ湾に近い、Dallasから見て 5時の方向、Slyの生まれた Dentonからはおよそ 400km以上も離れている Beaumontで、1946年 8月14日に生まれています。とは言っても、そこにいたのは彼が二才(!)になるまでだったそうですから、「三つ児の魂、百まで」ってので行くと、彼の精神世界にとっては、むしろ、移ってきた街、San Franciscoの対岸の Oaklandこそが揺籃の地、と言えるのかもしれません。
ギターを弾く父と、ジャズ・ピアノを弾く母のもと、彼はまずドラムとタップ・ダンスを習い、次にクラリネット、ギター、サックスにとりかかったそうですから、そこら、ベースしか弾いてない「純粋ベーシスト」とは、おのずと世界観も違ってくるワケですなあ。
その彼が 15才のときに、クラブに出演していた母のピアノをメインに、彼がギター、そして他にドラム、というトリオで演奏していたらしいのですが、そこで彼はオルガンの足踏み用のベース鍵盤を見つけ、ギターを弾くかたわら、足ではベースを入れてた(器用なやっちゃ!)ら、その鍵盤が壊れちゃったらしいんですね。そこで、どーも、サウンドをトータルに見て、この場に必要なんはギターよりもベースなんじゃないか?と考えた彼はベースに転向したもののようです。
だよね〜。ジャズにギターは要らん!(なんてまた物議を醸すよなこと書いちゃいましたねえ。ま、言うまでもなく、これはジャズの「マニアじゃない」ワタクシがほざいているだけですから、「正しい」マニアのみなさまは「フフン」と鼻で笑ってやってくださいませ。ご投稿は無用です)
最初はベース鍵盤が直ってくるまで、と思ってたらしいんですが、いっこうに修理される気配もなく、ま、それでやむなくベースも買ったらしいんですが、彼としては、ベースをフツーに弾く気はさらさら無かったみたいで、「だって、俺はギタリストでベーシストじゃない、と思ってたから他のベーシストからどう思われようがへーきだった」・・・う〜ん、それが良かったんですなあ。まさに世の中、なにが幸いするか判りませんのじゃ。
そうしてるうちに、こんどはドラムが抜けてしまい、彼はリズム・セクションとして、よりパーカッシヴなプレイをするようになっていったらしく、そこで編み出されたのが親指で弦を叩く奏法だった、と。
そんな、やむにやまれぬ事情がバック・グラウンドにあっての「あの音」なワケで、そこら、日夜、寝る間も惜しんで切磋琢磨し、いかなベーシストでも目を見張るよな「すんげえ」プレイを開発せんとしてる「スーパー」・ベーシスト「じゃない」ってとこが逆にスバラしいんですねえ。だから彼のベースを聴いてても、テクニックに淫してないんですよ。
そして、そのように、あらゆる楽器のリズム楽器としての側面をフルに活かす、というコンセプトは、多少のアレンジを加えつつも、Sly & the Family Stoneのサウンドに具現化されてるよな気がしませんか?
ワタシなぞ、Thank Youのベース、ギターのリフ、ブラスの下降メロディ、などどれもが(もちろん「音高」がある以上、メロディ楽器でもあることは当然なのですが)リズム、あるいは半可通が濫用したがる「グルーヴ」なんてえコトバのために一丸となって「ちゃうこと」やってる(なんて言うと矛盾してる、って思う?へっへっへ、たぶん、Slyが好きなひとなら判ってくれるんじゃないかな?)とこに、このイノヴェーターの凄さがあるのだ!と言いたくなりますねえ。
てなワケで、ま、もちろん Sly & the Family Stoneにとっては、どのメンバーもそれぞれに重要な位置を占めている、とは思いますが、なかでも、この Larry Grahamの存在は、単なる「ベーシスト」というポジションを超えて、全体のサウンドをも左右するような、もっとも傑出したタレントであった、と考えております。
Larry Graham無しに Family Stone無し。(ま、逆もまた真なり、ではございますが)
ところで、Larry Grahamの使用楽器は、ってえと、ピアニストだった母とのトリオ時代、最初に買ったベースってのが「古い St. George」と語っているようですが、それってメーカーなのか、店名なのかもはっきりしません。
続いては Fenderの Precisionと Voxのベース(型式不明です)を使用し、またその後、Family Stoneから Graham Central Stationまで使用した Fender Jazz Bassがあります。
しかし、彼はそのベースを改良(?)すべく日本の Moonに特注した作らせた「純白」の Jazz Bassスタイルのカスタム・ベースを最近では専ら使っているようですね。
この Moon Larry Graham Specialは二個の Bartolini PU(ネック寄りの PUはストラトのリア PUみたいにスラント・マウントされてます)を搭載し、GHSのライト・ゲージ Bass Boomerが張られています。
足元には Morleyのヴォリューム・ペダルと A/Bスイッチ・ボックス、そしてそれぞれにつながる Rolandの Jet Phaserと Morley FUZZ Phaserという構成だとか。
アンプに関しては Sly & the Family Stone時代には SUNNを使っていましたが、その後、Fender各種や、Acoustic 360を経て、最近では Hughes & KettnerのBassBase 600( 650W出力) Hybridヘッドに BC 410あるいは BC 215キャビネットを組み合わせて使っているようです。
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Which One's First?
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さて、Sly & the Family Stoneがスタートした 1967年の Martin Luther King Jr.は、というと表立った動きとしては、ヴェトナム戦争に関する発言が目立つ程度で、人種差別撤廃関連の行動は記録としては残っていないようですね。6月には著書 Where Do We Go From Hereが発行されています。
ところで、Sly & the Family Stoneとしての初シングルがなにか?という点について、多少の混乱があるようで、それを、Loadstone Recordsからリリースしてローカル・ヒットとなった I Ain't Got Nobody / I Can't Turn You Loose( Loadstone 3951)である、とする資料と、それ以前にすでに Epicからリリースした Higher / Under Dog( Epic 10229)である、とする資料が対立しております。
Epicである、としている方は、「コレクター」のためのレア・アイテムとして、Slyの Autumn時代からのシングルもすべて、「もしあったら XXXドル相当」なんて値踏みまでしているサイトなんで、ワタシとしてはそのよーな「金のからんだ」シビアーな目でチェックしてるほーを「信じ」ますが。
とゆーワケで、その「おタカラ鑑定団」みたいなサイトの記載によれば、続いてリリースされたのは Bad Risk / 曲名不明( Epic シリアル不明)。さらに Dance to the Music / Let Me Hear It From You( Epic 10256)で、その次が Loadstone 3951、I Ain't Got Nobody / I Can't Turn You Looseとされています(ただし、その録音日時は実はこちらが先、という可能性はありますが)。
どちらにしても、Sly & the Family Stoneのアルバム、Whole New Thing( Epic 26324)に収録されているのは Underdog( Under Dog)、Bad Riskで、I Ain't Got Nobodyと I Can't Turn You Looseは収録されていません。ただ、このアルバム自体のリリース日時を 1967年 1月 1日としている資料もあり、それで行くと上記の Epicからのシングルは「すべて」アルバム発売後に出た(あるいは同時に、って可能性もあるけど)ことになりそうですよね。いくらなんでも、そりゃムリっつーもんで、1月 1日ってのはなんかのマチガイだと思われます。
そこらは、まあ EPシングルのコレクターでもなきゃ、どっちゃでもいいか?
それはともかく、このアルバム Whole New Thingですが、ある意味では、後の Slyのサウンドのテクスチュアにつながる「仕上がり」に相当「達して」いるんですよ。
しかし、「なにか」が足りない!現実にも、このアルバムのセールスは「標準以下」だったのですが、いったんヒットしてから、そのルーツを探る、みたいな意味合いで、このアルバムに遡って聴いてみた人たちも一様にこれには「惚れ込めない」場合が多いようなんですよ。
実はワタクシも遡ったクチなんですが、「ああ、最初はこんなだったのね?」という「淡白な」感想くらいっきゃ持てませんでした。
よく、最初にもっとも濃ゆい個性的なサウンドがあって、それを薄めることによって「大衆に受け容れられ、ヒットする」ってえ公式が、ロック・バンドなんかでは「ありがち」なんですが、この Sly & the Family Stoneの場合には、それが当てはまらないようです。
Whole New Thingはいまだ模索の段階だったのか、あるいは、なにかしら、「ふっ切れてない」部分があったのか(ワタシはこちらの説をとっていますが)、ダイレクトにココロに届いてこないよな気がいたします。
ただ、バンドとしてのコンセプトはすでに完成している、と言って良いでしょう。
そのアルバム・ジャケットのデザインも、それまでのブラック・ピーポー向けのメロウでアダルティなダークなものを脱し、白を基調とした明るいデザインにメンバーたちを配し(ま、モチロン Slyひとりは「ひときわ」デカく中央にそびえてはおりますが)、このグループが人種も性別も超越した(あ、誤解の無いように言っておきますが、それまでだって男女込みのグループってイッパイあります。でも、その殆どはヴォーカルに紅一点なんてスタイルが多く、本気で器楽演奏のスキルを買われて、バンドのメンバーとして、という形は、この Family Stoneが初めてではなかったでしょうか?また人種の混合についても、それで「人種問題には触れない」というやり方ではすでにありましたが、これほど積極的に「それ」に関わっていくテーマを採り上げたバンドでは稀有のことだったでしょう)、まったくこれまでとは異なったコンセプトで走り始めたきわめてユニークな存在であることを物語っています。
しかし、ワタクシがどーもこれはイマイチぴんと来んなあ〜、と思ったのと同様、当時の大衆にもこのアルバムは「大歓迎されたとは言い難く」、ハッキリ言ってセールス的には「失敗作」に分類されるかもしれません。
ただし、当時のブラック・ミュージックの「正統」からすると、ヒッピー文化やらロック・カルチャーに「汚染」されたそのファッションやステージ・アクトは、明らかにそれまでのソウル・R&Bファンとは異なる、これまではロックばっかし聴いてきたよな若者たちからの支持を得始めていました。
そしてそのサウンドのブレイク・スルーは翌1968年に訪れます。
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Death
in Memphis
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Sly & the Family Stoneが全国的にブレイクすることとなったアルバム、Dance to the Musicがリリースされたのは 4月27日のことでしたが、その前にひとつ、とても大きな事件がありました。
まず 3月28日には Martin Luther King Jr.がおよそ 6,000人による Tennessee州 Memphisでの「衛生労働者のストライキ*支援」行進を率いたのですが、この行進は結局、暴力と略奪の騒乱の中で挫折してしまいます。
*─ 1968年 2月 1日に 2人のゴミ収集職員がその作業中に死亡したことに始まり、環境改善や待遇の見直しを求めてストライキに入ったため、Memphis市内には一時 1万トンとも言われる未収集のゴミが山積されることになりました。
Memphis市長 Loebは、もし、職場に復帰しないのならば、「新規に雇う」と発言し、この発言で事態はさらに悪化します。Washingtonから出向して来た Unionに対し仲介を依頼しましたが解決せず、そればかりか、ストライキに参加しなかった職員が 38台(本来は 180台で収集にあたる)の収集トラックで作業しようとすると、それに対して実力で妨害しようとする動きがあるため、警察がゴミ収集トラックを「護衛」する有り様でした。
2月16日、組合側は市議会に、市長との仲介を依頼しますが、市議は市長を擁護してこれを拒否。対抗するかのように Memphisの NAACP(全米黒人振興協会)は組合側を支持。
2月19日、NAACPとその賛同者たちによって市庁舎にピケを張り、翌日にはダウンタウンの商店すべてをボイコットするように指令を出しています。
22日には 1000人ほどのストライキ参加者とその賛同者によって市議会の副議長らがカンヅメにされ、組合側の要求を市側が認めるように働きかけることを強要していますが、もちろん、事態はいっそう悪化するだけでした。
このあたり、衛生職員の組合と、それを支持する賛同者たち、さらに組合の全国組織、市長、市議会、と関係者が拡大していったために余計、混迷をきわめていた、と言えるかもしれません。しかも、これまでの平和行進などとは異なり、街中にゴミが溢れたことによる市民の憎悪が労働条件の適否ではなく、組合およびその支持者に収斂し始めていたことは確かです。
そんな中、市長が個別の職員にストライキから職場に復帰するよう手紙で呼びかけたり、またデモ行進中のリーダー二人が「信号無視」で逮捕される、という事件も起きました。さらに市長の自宅の窓が破壊され、市長はこれを組合側の暴力として非難しています。
都合 116人もの組合員及び支持者が逮捕されてしまい、ついに Martin Luther King Jr.が出て来ることとなったのでした。
また 3月 9日には市長の示唆に基づき、州兵は暴動鎮圧態勢に入っています。
NAACPの Roy Wilkinsは、事態をこれ以上悪化させないために抗議運動を「平和的に行うように」という要請を出しています。逆に言えば、それほどまでにストライキに対する「憎悪」も、組合側の市に対する憎悪もエスカレートしていた、ということなのでしょう。
当初、12,000人もの参加が予定されていた抗議行進は、雪のために Martin Luther King Jr.が到着できずに「延期」に。
そして 3月28日、市内の Clayborn Templeからシティ・ホールまでの行進が Kingに率いられてスタートしましたが、例の市長宅の窓破損の嫌疑の名目で警察がこれを「襲撃」し、警棒で乱打し、盾で殴り、催涙ガスや銃による射撃などによって16才の少年、Larry Payneが死亡しています。警察は 280人を逮捕し、負傷者(黒人ばかり!)は 60人ほど出ました。
州議会は午後 7時以降の外出禁止令を発令し、州兵 4,000人を移動させています。
翌日には再度、行進が行われましたが、それは装甲兵員輸送車やジープ、軍用トラックなどに周囲を固められてのものでした。
この日、市長は Johnson大統領の「仲介する用意がある」という提案を「拒否」。
28日に死亡した Larry Payneの葬儀が 4月 2日に行われ、翌日には Martin Luther King Jr.が Memphisに戻ってきました。
この Memphisでの「騒乱」は市民生活に影響を与えたゴミ収集のストップという事態が絡んだせいか、被害者(?)たる市民をも巻き込み、単純に「権利闘争」とは言い切れない側面を持ってしまったがために、市側も強硬になり、さらに事態を悪化させたのかもしれません。黒人にだって権利を与えるべきだ、という「寛大な」白人にしても、自分の生活に支障を来すことになれば、一転して「思い知らせてやる」、になる可能性はあるワケですからね。
そんな状況の中、4月 4日、Martin Luther King Jr.は Memphisの Lorraine Motelのバルコニーにいるところを James Earl Rayという男に狙撃され、死亡しました。
これが Dance to the Musicがリリースされた直前に起きた「大事件」です。
おそらく、もはやレコーディングの作業は終り、すでにプレスから、ジャケットへの収納も済ませ、配送を待つ状態だったかもしれません。
ま、そこは断言できるものではありませんが、おそらく、このアルバムには Martin Luther King Jr.の暗殺による影響というものは「無い」と考えてよいのではないでしょうか。
そして、このアルバムこそ、彼らが世に迎え入れられた記念碑的な作品で、タイトル・チューンでもある Dance to the Musicは Popチャート 8位/ R&Bチャート 9位、を記録しました。
また二曲目には例の Epic 10229のシングルの Higherが収録され、同じく Loadstone 3951の I Ain't Got Nobodyも収録されています。
このアルバムの成功によって、彼らの知名度は全国的にアップし、国内ツアーも行われました。ところで、Dance to the Musicについては、昨年 9月13日にとり上げた King Curtisの Memphis Soul Stewのとこでも採り上げてますよね。おそらく、この演奏スタイルにはかなりの影響があったのではないか?と考えております(が、まったく無関係、ってことも「無い」とは言い切れないかも?)。
さて、この Dance to the Musicですが、先ほど、チャートのとこで気付いたこと、ございませんか?そ!フツー、ここで採り上げるナンバーって大抵は R&Bチャート 4位、Popチャート 12位・・・なんてゆうふうに、R&Bチャートの方が「上位」まで行ってるんですよね。
しかるに、この Sly & the Family Stoneでは「そうじゃない」んです。つまり、一般的なファンク、ソウル、R&Bにはキョーミの無い、それこそロック・ファンたちが「かなり」買っている、ってことなんですよ。そこが彼らの「強み」だったワケです。この時点では・・・
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Oh, pretty face・・・
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さて、二枚目のアルバム、Dance to the Music( Epic 26371)では、そのタイトル曲が全米チャートの 8位に入り、一躍上昇機運に乗った Sly & the Family Stoneでしたが、続いてリリースされた三枚目のアルバム、Life( Epic 26397)は、後に Greatest Hitsにも収録されることになる Fun、Life、M'Ladyの三曲が収録されており、Plastic Jimなんてえ面白い曲も入っているのですが、そのセールスは「やや」期待ハズレだったようで、このアルバムから全米チャートのトップ・テンに入った曲は無かったハズです。
その収録曲は・・・
Dynamite / Chicken / Plastic Jim / Fun / Into My Own Thing / Harmony / Life / Love City / I'm an Animal / M'Lady / Jane Is a Groupee / Only One Way Out of This Mess(この最後の曲だけは、CD化の際にボーナス・トラックとして追加されたような記憶が・・・)となっています。
全体的に彼らのサウンドはさらに「整理され」ツボを掴んできているよな気がしますが、それは逆に言えば、カオス=混沌の使い方がウマくなった、ということなのかもしれません。
最初のアルバム Whole New Things( Epic 26324)あたりでは、混沌がナマのまま、それこそコンセプトを不鮮明にさせるほど錯綜していたものが、このアルバムあたりから、しっかり「コントロールされた」、あるいは、「これはカオスを表す記号です」といった「象徴」としての「カオス」を自由に取り扱えるようになったのではないか?と思っています。
つまり、混沌にしても調和にしても、現実の「それ」が、作品上でのリアリティを必ずしも向上させるワケではない、ってことなんですよねー。
ま、見ようによっちゃウソ、あるいは誇張、演出なんてものが介在して、初めて作者の表現したかったものが伝わる「こともある」というディレンマ。そこをクリアして「作品化」のツボを掴んできたんじゃないか、と。
もちろん、それはワタクシ個人の印象で、ご使用者のみなさまが等しく感じられるものではありません・・・ってそりゃ通販のアヤしいセリフでしたね。がははは
ところで、この 1968年には上記のアルバムからのシングル・カット、Life / M'Lady( Epic 10353)と、次のアルバムに収録されることになるナンバー、Everyday People / Sing A Simple Song( Epic 10407)の二枚のシングルがリリースされているんですが、その他にも、実はコレクターには知られているらしいヘンなシングルが存在するらしいんですね。
それは The French Friesという名義で、上の二枚より先に出されたシングル、Dance A La Musique / Small Fries( Epic 10313)です。
曲名から「お気付き」になられた方もおられるでしょうが、Aサイドは Dance to the Musicのおフランス語ヴァージョンでございます。って、実際に聴いたことはないんですけどね。
ま、ちょっとは聴いてみたい、っつー気もしますけど、たぶん超レアなんじゃないでしょか。
ところで、Martin Luther King Jr.が暗殺されたことに関し、少し触れましたが、その翌週には時の大統領 Lyndon B. Johnsonが署名して、住居の賃貸および売買に関する差別の禁止を定めた法案が成立しています。
そのようにして、結局人権法案が次々と「曲がりなりにも」成立し、白人優越論者を「失望させ」てしまったがために、逆に黒人に対する迫害行動を「非公然化」させ、さらにはテロリズムにまで走らせることになってしまった、ということが言えるかもしれません。
その誕生日の前後ということで、毎年 1月の第 3月曜を国民の休日として Martin Luther King Dayが制定されたのは 1986年で、この休日は全米の 50の州で採用されています。
そして、以前に触れたように、James Merdithはこの法案に「反対した」ということをお忘れなく。人間は時とともに変わっていくのねん。それも「より良い方向へ」とは限らないのだ。
ところで 1968年にリリースされた二枚目のシングル、Everyday People / Sing A Simple Song( Epic 10407)ですが、この Aサイドの Everyday Peopleが彼らにとっての初の全米チャート「ナンバー 1」の大ヒットとなりました。
あ、すっかり忘れてましたが、Sylvester Stewartには弟の Freddieの他に、姉( Loretta、その後結婚して姓は Saffoldに変わっています)、二人の妹がいるんですが(そのうち年上の Rosemary、愛称 Rosieはみなさまご存知のとおり Family Stoneの正式メンバー)末っ子の Vaetta Lazell Stewartは、1960年代の中頃に実は大病を患って一度、死にかけており、そのときの臨死経験からか、とても信心深くなったと言われています。
そして奇跡的に快復してからは Sly & the Family Stoneのバッキング・ヴォーカルとしてレコーディングとツアーに参加している、となっているのですが、残念ながら、どのアルバムでも彼女の名前がクレジットされておらず、はたして、どれに参加し、どれに参加していないのか、またアルバムを通して参加しているのか、あるいは曲によって参加しているのか?も、いまのところ判明しておりません。
ただし Family Stoneのライヴでバッキング・ヴォーカルとして参加したのは(年次不明ながら) San Franciscoの Lil' Bo Peeps、Bostonの the Sugar Shack、そして Madison Square Gardenの三ヶ所、という記載を発見いたしました。
さらに、その後に結成された女性三人によるヴォーカル・グループ、Little Sister(他の二人は Mary Randと Elva Meiton)は Slyによって提供された曲を吹き込み(ただし、すべてがそうなのかどうかは判りません。他の作品もあったかもしれません)、1970年には Sly自身のレーベル、Stone Flower labelからリリースされた You're the Oneは同年前半に R&Bチャートの 4位にまで上がりました。
さらに、その後、Family Stoneのメンバーだった Cynthia Robinsonと新しいバンドも作っています。
Rosieの娘の Lisaをメイン・ヴォーカルに、他には同じくヴォーカルに Skyler Jett、キーボードに Tony Yates、その兄 or弟の Pete Yatesのベース、ドラムには Brian Collier、Vince Larsと Moses Tysonのサックス、という構成で、Funk Familyという名前で活動しました。
そして Vaettaは、最近では California州 Vallejoの Evangelist Temple Fellowship Centerの聖歌隊の監督者となっています。
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Somebody's
Watching You
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1969年 5月 3日にリリースされた Sly & the Family Stoneの 4枚目のアルバム、Stand!こそ、彼らの前半(?)におけるコンセプトおよびサウンドの両面でのブレイク・スルーだったのではないでしょうか。
There's a midget satanding tall
And the giant beside him about to fall
という一節がとても印象的だったタイトル・チューンの Stand!をはじめ、これまた
Make your prices,
I wanna take you higher
でお馴染み、(そして B.J. Emeryと Maurice John Vaughnが共演したイタリア盤でも採り上げてましたねえ。いささか「なん」でしたが・・・) Higher、さらには
Living' with a fat one, tryin' to be a skinny one
Different strokes, for different folks
という全米チャートおよび R&Bチャートの「両方で」 1位をとった Everyday Peopleなどの、まさに彼らを代表するような名曲が勢ぞろいしています。
しかし、後の Greatest Hits(まだアナログ・ディスクの 1971年の発売)や Anthology( CD化されてからの同様のアルバムですが、当然、1971年以降の作品からも選抜されております)にも収録されてはいない、きわめて重要なナンバーがそこには存在しています。
Higherにしても Standにしても、もちろん「自分を見直せ、前向きになれ」というメッセージで溢れており、それは人権法案が法制化されてからだってやはり差別され続けている黒人たちを力づけ、反ヴェトナム戦争を唱える反体制の活動家にも「小人たちが立ち上がり、その横では巨人が倒れる」ことを夢見させる、という、なんにせよ「圧力下にある」者たちへの、ある種のアジテーションでもあり、一方では Everyday Peopleの
黄色いヤツは黒いのが気に入らない
黒は赤いのが気に入らないし
赤は白いのが気に入らない
歩みが揃わなくても
違う人種だ、と感じても
それでもいいじゃないか
という、「違い」の上での「共存」を呼びかけて、ま、それだからこそ Popと R&Bの両チャートを制したのでしょうが、っちゅうナンバーもありいの、というこのアルバム、その中にあってひときわ異彩を放つナンバーがあります。
それが Don't Call Me NIGGER, WHITEYです。
互いの「憎悪の貨幣」として流通している「蔑称」を「並立」させることでそのナンセンスさを際立たせていますよね。
このフレーズには、そのカウンターとして Don't Call Me WHITEY, NIGGERという答えが後を追い、そしてまた最初のフレーズ、という無限連鎖のようなロンドが続いて行くのですが、もしかしてそれらの無益な応酬の合間でコトバを持たずに繰り広げられるワウ(ワタシゃあ、これワウじゃなく、例のスピーカーからの音が送られてくるホースをくわえて、ヴォーカルをとるみたいにマイクで拾うアレだと思うんだけど)系のギターが、それこそコトバにならない声を上げているような気がします。
はたして、この曲がアメリカでどのように受けとられたのか?を一概に言うことは難しいでしょう。たとえば白人にしても、差別して当然だ、なんて思っているガチガチのトンチキと、黒人の差別撤廃デモに積極的に参加しているような、黒人に対する「理解ある」白人との間には、ものすごい開きがありますよね。
さらには黒人にしたって、差別されても構わん、なんてのはいないと思いますが、なるべくマイルドに生活が改善されてってくれたらそれでいいや、なんてのはいそうですし、一方には、武闘派とも言える差別撤廃をジャマするヤツは白黒問わずいてこましたる、なんてラディカルなのもいるワケです。
この曲はいったいどんな波紋をもたらしたのでしょうか・・・
日本で暮してたワタクシなんぞにはとても想像も出来ませんわ。
ところで、この年、どんなことがあったか、ってえのを音楽カンケーをメインに拾ってくと、1月末には例のイギリスの四人組が屋上でライヴやって「お苦情」でストップ・・・ってダジャレはいかんぞう。
3月のアタマにゃドアーズのジム・モリソンがマイアミでのライヴで XXXXを露出してタイホされてます。ホント無益なことを・・・
あ、音楽じゃないけど、この Stand!が出た 5月の後半にはヴェトナム反戦デモに州兵のヘリコプターが上空から皮膚をシゲキするスプレイを散布しています。まだそんなことをしてるのねん。あ、この頃の大統領は「あの」ニクソン。
8月15日には伝説の Woodstock!
ついでだから、出演者のリストでも、と思ったけど、メンドーなんで、知りたい方はこちらへ。
また、この年のヒットは、ってえとフィフス・ディメンションの Aquarius や、Metersの Cissy Strut 、ツェッペリンは Good Times Bad Times 、ストーンズでは Honky Tonk Women 、また Diana Ross & the Supremesの Love Child もあったし、C.C.R.の Proud Mary もそうです。
アルバムでは Aretha Franklinの I Say A Little Prayer がこの年ですし、「アビー・ロード」もだし、クリームの「グッドバイ」、「クリムゾン・キングの宮殿」、マイルスの「ビッチェズ・ブリュー」なんてのもこの 1969年でした。
やはり、こうして見てくると、同時代の音楽の流れの中で、やはりこの Sly & the Family Stoneの Stand!は「かなり」異質ですよね。
ところで、このアルバムの中でワタシが一番好きな曲ってのは、上に記したどの曲でもなく、実は Somebody's Watching Youでございます。
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Thank You
For Let Me
Be Myself Again
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Pretty, pretty, pretty as a pictureという、それこそ可愛らしい声でのリーディング・フレーズを、お馴染みの Larry Grahamをメインとしたドスの効いた(?)低音でWitty, witty, witty as you can beと追う、この交互のラリーを主軸として Somebody's Watching Youは始まります。
光ってるものばっかり見てるから目をやられちゃうんだよ
君を開放してくれるものに迫ってごらん
なんてフレーズで、「光ってるもの」を、音楽シーンで言えば「大ヒットを連続させるスター」、文学でなら「ベスト・セラー作家」、つまり「時代の寵児」と考えて「目立つもの」って考えるのもいいですが、自光性の TVスクリーン、と捉えることも可能ですね。
テレビばっか見てるとダメだよ、って。
次の行、原文では Close to the things that make you freeとなっていて、ここでの Closeを「目を閉じる」と訳してもいいのですが、Close to youの使い方で行けば、接近する、肉迫する、なんて意味にもとれて、あえてこんな訳し方をしてみました。
この、さほどドラマティックな展開も無い(ま、そこら、Greatest Hitsや Anthologyに「選ばれない」だけのことはあります)淡々と歌っているこの曲ですが、今ではこの Stand!の中では一番好きな曲になってしまっております。
さて、このアルバム Stand!が発売された 1969年には三枚のシングルがリリースされており、最初が Epic 10450、Stand! / I Want to Take You Higher、続いて二枚目が Popチャート 2位、R&Bチャート 3位まで上った Epic 10497、Hot Fun in the Summertime / Fun、そして Epic 10555としてリリースされたのが全米チャートおよび R&Bチャートの両方で 1位に輝いた Thank You Falettinme Be Mice Elf Agin / Everybody Is a Starでした。
この Thank You Falettinme Be Mice Elf Aginというのは、Thank you for let me be myself again・・・つまり、「ボクにもいちど自分を取り戻させてくれてありがと。」っちゅう文を米語的ダジャレ化したものなんでしょね。
特徴的なギターのリフで始まるこの曲は、そこに斬り込んでくるアップ・ダウンのクイック・ストロークのカッティング(もちろん後のナイル・ロジャースなんかに比べると、さほど技巧的なものじゃないですけどね)、さらにスタッカートとレガートを使い分ける Larry Grahamのコンソリデイテッドなベースなどを基調とした、まさに Thank Youならではのモノ・コード進行の上で、時に幻惑的な歌詞を交えてアイロニカルな Thank Youが提示されてゆく・・・
アメリカはヴェトナム戦の泥沼にはまり、Robert Fransis Kennedyを、 Martin Luther King Jr.を、さらには Malcolm Xを失い、政府は抗議の声に耳を貸さず、警察は相変わらず制圧のために平気で市民に(それも黒かったら特に)発砲する「閉塞した状況」の中で発表されたこの曲は、その包含するものに気付いていようといまいと、多くの層に支持されてアメリカ全土を席捲したのでした。
いつもなら、この曲の歌詞についても強引な意訳などやっちゃうとこなんですが、こいつだけは手に負えません。
その「含み」がとても把みきれないんですよ。したがってみなさまには原文(だろうと思われるもの)を紹介するにとどめておきます。
Lyric
ある意味、この Thank You Falettinme Be Mice Elf Aginが Sly & the Family Stoneの、そして Sly Stoneのピークであり、同時に瓦解の始まり、と言うことも出来るかもしれません。
これまでの彼は一義的な「ブラック・パワー礼賛」ではなく、白も黒も(黄も赤も)超越して一緒に素晴らしい世界を作ろう、というところに向かっていたように思われます。
しかし現実は、いまだに黒人には平気で警棒を振りまわす警官、黒人の入居を断る「高級アパート」、黒人には信用売りをしないディーラーなんてのがザラでした。
そんな失望の連鎖が次第に彼の汎人種主義的指向性をスポイルし始めたためでしょうか、これ以降の彼の音からは、徐々に人種を超えて支持されるもととなっていたように思える「天真爛漫さ」が削られてゆくような気がいたします。
脳天気の一歩手前みたいなあっけらかんとした明るさとシンプルさが「グルーヴどうのこうの」以前に来る Dance to the Music、遊技場のサーカスの呼び込みを思わせる牧歌的(?)なオルガンの音に誘われる Life、まるで階段を上がったり降りたりしてるよなベースに導かれシンプルなコーラスが楽しい Fun、最初こそ陰りがあるけど、これまた明快なテーマを繰り返すギターに乗せて、子供のような優しいコーラスとシャウトをからめた力強いドレミ音階がユニークな Sing a Simple Song、シンプルでスネアの効いたリズムに、Ah, Ah, Ah, Everyday People!という力感のあるコーラスがバーストする Everyday People・・・
どれも、どこかに、悪く言えば稚気ともとれるけど、フシギな無邪気さ(もちろん、敢えて演出したもの、と捉える方も多いでしょうが)があって、ある種、セサミ・ストリート(あ、そー言えば、これも 1969年から始まったんじゃなかったっけ?)にも通じる「理想主義的な」人種が平和的に混在する社会、という世界観を描き出そうとしていたのではないでしょうか。
そして、そこにもうひとつのバック・グラウンドとして存在するのが「寛容」を片翼とした「優しさ」だったのでは?と思うのですが、極端に言えば、この Thank You Falettinme Be Mice Elf Aginを境にして、次第に冷笑的で皮肉っぽく、屈託の「ある」方向へと変わっていったのではないか・・・
とまれ、この曲をほぼリアル・タイムで聴いて惚れ込み、自分のバンドでも演奏していた身としては、当時から、隠喩・暗喩、ほのめかし、スラング、謎かけ、サンボリスムに溢れたその歌詞は、まさにそのままで「大いなるミステリー」であり続けています。
いまだにすべて解読し得たとは言えません。
もちろん、この曲に限らず、Sly & the Family Stoneの楽曲の本来の歌詞が「なにを歌ったものであるのか」を本気で追求しよう、なんて思ったら、まったく新しい、独自のサイトひとつ作らなきゃいけないほどのヴォリュームがありそうです。
ところで、ここでもうひとつ 1969年にリリースされたシングルで Joe Hicksの I'm Goin' Home / Home, Sweet Home ( Scepter 1226)ってのがあるんですが、これにどうやら Sly & the Family Stoneが絡んでいるらしいんですが、あいにく聴いたことが無いんで、なんとも言えません。
また同じく 1969年リリースのシングル、A&M 1081、Abaco Dream(どうやら New YorkのR&Bバンドらしい?)の Life & Death in G & A / Cat Womanにも Sly Stoneが参加している、というウワサ(?)があるようです。ま、こちらも聴いたことがございませんので、なんとも言えませんねん。ただ、Life & Death in G & Aという曲自体は実際に Sly Stoneの作らしく、曲名の由来は、最初、キーが Gで始まるけど、終るときは Aだからなんだって。
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Everybody
Is a Star
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かねてから、一度アメリカの公民権運動についても、せめてその代表的な人物のひとりである Martin Luther King Jr.牧師の動きを介してでもお伝えしたい、と思っておりました。
しかし、ブルースマンでそこらに「専念」しちゃった、というか深く関わった、ってのはちょっと思いつかないんですよね。もちろん、みなそれぞれの位相で関わっていることは確かなんですが、それを作品の域でも積極的にフィード・バックさせて、大衆の意識の変革を目指したか?となると・・・
やはり、その意味では、この Sly & the Family Stoneこそがふさわしいワケで、そこでアメリカの公民権運動とコラボレート(っつうのか?)させて、かってあった「ひとつの転換点」を描く(つーか、描いてみよう、とする。かな?)この企画が 2004年秋の始めからヒソカに準備が進められておったのでございます。
ま、実際に初めてみると、とてもまとまりのない、ハナシがあっち行ったりこっち来たりの迷走状態で、最初に思ったよりも長くなっちまった、ってのが真相ではあるのですが。
でございますので、今すこしのお付き合いを・・・
え〜さて、およそワタクシ個人に限って言えば、Sly & the family Stoneの「重要な」作品は 1969年の末までにすべて「世に出た」のではないか、と感じています。
もちろん、この後にもアルバムはリリースされますし、「それなりの」名曲も無いではありませんが。
1969年のアルバム Stand!の後、次のアルバムまでの間には、それまでのペースから考えると、いささか不自然なほどのインターバルがあります。
その空隙の底に横たわるのは、やはり紛れもなく、ある種の「変化」であることは多くの資料が指摘するところですが、その原因を、Slyの薬物への依存症に求めるものがケッコウ目につきます。
ま、真相は本人にしか判らないとは思いますが、なんにしても、ここがターニング・ポイントだった、ということは言えるでしょう。
そして、これまたごく個人的なことゆえ、そんなこと知るかい!と言われそうですが、この一連の Sly & the Family Stoneの音によって、ワタシのロック観が大きく変化してしまったのでございますよ。
ま、実際には 1970年11月21日に発売された Greatest Hits(体裁はあくまでもベスト・アルバムですが、実は Thank You Falletinme Be Mice Elf Aginとそのカップリング曲の Everybody is a Star、そして Hot Fun in the Summertimeの三曲は、このアルバムにしか収録されていませんでした。その意味では新録三曲をボーナストラックにしたベスト、とも言えそうです)をワタクシが入手したのは翌1971年だったと記憶しております。
この前後には(って、ちょっと前の 1969年のことにはなりますが) California州 Altamontでのストーンズのコンサートで会場の警護にあたっていた「地獄の天使」によってファンが刺殺される、という惨劇が起きておりましたねえ。
もちろん、その 1969年はむしろ、もはや伝説とまでなっている「あの」 Woodstockの年でもありましたが、昔っから、ミソもクソも一緒くた(お下品な表現でごめん)ってえ「フェスティヴァル形式」ってやつが嫌いなワタクシとしちゃあ、Woodstockを神話化するよなむきにゃちょとついてけません。
それに Sly & the Family Stoneが Love City、Dance to the Music、Music Love、それに I Want to Take You Higherのたった 4曲で、もはやオールド・スクールと言ってよい(なんて言うと怒るひとも多そうだなあ。なんでかブルース関連サイトの方、コレが好きなひと多そうだから・・・) the Whoが 20曲以上も演ってるんだぜ!
てなことはともかく、この 1960年代末あたりまでの音楽、それも特にブリティッシュ系にかなりどっぷりだったワタクシにとって、Sly & the Family Stoneの音楽は「もの凄〜い」ショックだったのは確かです。
例えばブリティッシュ系のロック・バンドですと、ギターならば、そのトーンにしても、フレーズにしても、「誰にも負けない」ほどのレヴェルで、言わば時代の最高峰を目指したみたいなとこあるでしょ?それはどのバンドもそうだったと思うんですよねー。ヴォーカルだってそう。どこまで高音が出るか、みたいな。
しかし、Slyはそんなことは二の次なんですよね。
大事なのは、伝えたい、と思うメッセージがしっかりとあって、それを伝えるためには、シンプルに、明快に提示する、ってこと。
まさに、すんげえワザあるけど、言ってることはたいしたこっちゃない、ってえのがそれまでの「ロックの主流」だったとき(え?それはあんまりだ?)に、ワザに耽ることなく、「どーなのよ、これ?」という問題提起を歌にして送り出してきた Sly & the Family Stoneの作品に触れてしまってからは、もーしわけないけど、ブリティッシュ系のロックってのが「すべて」色あせて見えてしまい、ま、凄いことは凄いと思うけど、もう、かってほどは感心しなくなったのも確かですね。
そのような 1970年代初頭のワタシ自身の「変節」を、すべて Sly & the Family Stoneに帰することは出来ませんが、ロックとは?ということを改めて考え直すキッカケのひとつであったことは確かです。
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Sometimes I'm Right
and I Can Be Wrong
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1969年の Stand!( Epic 26456)から 1971年の There's A Riot Goin' On( Epic 30986、ギターに Bobby Womackも参加)までの長いギャップを埋めたのは前項の the Greatest Hits( Epic 30325)でしたが、そのアルバムだけに収録された「あの」三曲にしたところで、先行して 1969年にはシングルとして既に発売されていたものですから、現実には「空隙期間」の中にあったことは変わりありません。
1971年11月20日、しばしの休止(?)からひとつのアルバムが浮上してきました。
Luv N' Haight / Just Like a Baby / Poet / Family Affair / Africa Talks to You "The Asphalt Jungle" / Brave and Strong / (You Caught Me) Smilin' / Time / Spaced Cowboy / Runnin' Away / Thank You for Talkin' to Me Africaからなる There's A Riot Goin' On( Epic 30986)です。
しかし、そこには紛れもなく、それまでの Sly & the Family Stoneとは異なる「なにか」が混入していたように思います。
特に大ヒットであった Thank You Falettinme Be Mice Elf Aginのリメイクとも言える Thank You for Talkin' to Me Africaでの変貌、そこに Slyの「変化」が見とれるのではないか・・・
明るく、無邪気に希望を持って、シンプルに周囲に語りかけ、きっと良くなる、という願いにも溢れていたかっての陽気な Sly & the Family Stoneのサウンドが、ここでは鬱屈した暗い情念の中で、内省的なモノローグのように閉鎖した世界へと沈降してゆく重い絶望が圧倒しています。
1970年代に入ると Slyは予定されていたコンサートを勝手にキャンセルするなど、マチガイなく彼の精神世界には「なにか」が起きていたのでしょう。
もちろん、それを彼の薬物依存症のせいにするのはカンタンです。ですが、それを「招いた」ものは一体なんだったのか?そこにはなにかしらの「絶望」があったのではないでしょうか?
かって Malcolm Xはジョンソン政権下で「曲がりなりにも」成立した人権法案について、「人種によって差別することを誤りだ、という常識が定着するのならともかく、法案で差別を禁止することなど効果はないだろう」という趣旨の発言をしていましたが、まさに、その「予言」は的中し、アメリカは 21世紀になった現在ですら、大半の白人は黒人たちを「対等である」とは見ていません。
むしろ、R&Bチャートよりも全米チャートで評価された彼の作品ですが、それゆえに、ライヴに集まる白人の客も圧倒的に多かったことでしょう。
そして、そこで目の当たりにした自分のファンというもの、その実態(?)に触れたことがなにかしら、彼に与えた、あるいは彼を揺さぶったものがあったのではないか?ということも考えています。
もちろん、そんなことは本人でなきゃ判るこっちゃないし、あくまでも憶測でしかありませんから「うんにゃ違う!」ってえ反論はゴマンとありそうですが、ま、これはワタクシ個人のあくまでも「印象」でございますので、そこら軽くハナで笑って見逃してくださいませ。
この There's A Riot Goin' On( Epic 30986)からは、それでも(それでも?) Family Affairが Luv N' Haightとのカップリングでリリースされ( Epic 10805)、全米ナンバー・ワン・ヒットとなっています。そして、これが Sly & the Family Stoneの最後の大ヒットでもありました(同じ 1971年には Sly Stone個人名義のシングル Woodcock 001、Rock Dirge Pt.1 / Pt.2がリリースされているようなのですが、これは聴いたことがないのでなんとも言えません)。
この Family Affairのシングルは良かったのですが、アルバムとしての There's A Riot Goin' Onは、そこに嗅ぎ取れる攻撃性、暴力的な側面、いえ、はっきり言うと「ブラック・パワー」という、白人にとっては忌み嫌うキーワードが見え隠れするように感じられたからでしょうか、これまで Sly & the Family Stoneを支持してきた多くの白人ファンたちが、この作品から距離を置くようになったことも確かなようです。
ま、その大ヒットとなった Family Affairにしたところで、メイン・ヴォーカルは明らかにモノローグ化しており、メッセージ的なベクトルを放棄してますよね。求心的なサウンドは出口の見えない迷路の中に舞い降りてゆくばかりで、そこから周囲を照らす光はもはや見えてこない・・・
これは、ま、ワタクシもそうでしたが、それまでのファンが期待していたものとは「かなり」違うワケです。
よーするに、Sly & the Family Stoneというものが、これまで描き出して来た「こうあって欲しい」世界像というものに得られていた人種を超えた支持が、残酷な言い方をするならば、「愚痴なら聞きたくないね」、ということで支持を失ってしまった、とも言えるのじゃないでしょうか。
この「失速」がさらに一層 Sylvester Stewartの精神面に影を落としたせいなのでしょうか、1972年になってからの彼の行動は次第にバンドのメンバーにまでストレスを与えるほどのものとなっていったようで、Stoneファミリーの分解が始まってしまいます。
1972年にリリースされたシングルは Runnin' Away / Brave & Strong( Epic 10829)と Smilin' / Luv N' Haight( Epic 10850)の二枚ですが、それらのシングル・カットが世に出たころには、すでに Larry Grahamと Greg Erricoの二人が Family Stoneから抜けて、代わりにベースに Rusty Allenが、そしてドラムには Andy Newmarkが加わっています。
その Larry Grahamを欠いた Sly & the Family Stoneの初のアルバムが次の 1973年の Freshで、そこには、これまでのサックス Jerry Martiniの名も見当たらなくなっていたのですが・・・
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Higher the Price
Nicer the Nice
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1973年 6月30日にリリースされたアルバム Freshのレビューを二、三見てみたのですが、その中に、ワタクシをいささか愕然とさせるよなホメかたをしてるものがありました。
つまり、そのサウンドがブラック・ミュージック、中でも、ファンクとゴスペルに「回帰してきた」として歓迎し、高く評価していたのですよ。
う〜ん、考えさせられますねえ。ワタクシ、しょーじき言うと、ファンクにもゴスペルにも(もちろん敬意は払いますが)それほど興味があるワケじゃなく、ただ 1960年代末までの Sly & the Family Stone「だけ」が好きなワケでして、そんなとっからすると、逆に「そっか〜、それでワシ、いまひとつ乗れねえんだな?」なんてナットクしちまう始末でございます。
ですから、BassBase 600のとこでも書きましたが、James Brownなんて(もち、すげえおっさんだ、とは思いますが)ワタクシの音楽地図上には、そもそも「存在」しておりません。またひところ一世を風靡したらしい Brother Johnson(でしたっけ?)とかゆーのも「パス」でございます。そりゃベースのワザとか、グルーヴとか、おそらくかなり凄いのでございましょう。
ですが、どーも「また聴きたい!」にならないんですねえ。
それほど Sly & the Family Stoneが提示した「うたかたの夢」にプレゼンスがあった、ということなんですが、どうもブラザー系の方々はそんなこと「どーでもいい」ことのようでございます。いえ、それどころか、たぶんクラブ・シーンを主体にした「ダンサブル」なことに価値をおくせいなのかもしれませんが、「それがどうした」的あしらいまでされとるようですよ。
さて、同じくワタクシ、「Larry Graham無しに Family Stone無し」と断言してしまいました。
その意味で、この Freshは、もはや Family Stoneでは「ない」のでございます。
したがって Sly & the Family Stoneを追った本稿もホントは「ここまでで終り」、こっからはもはや後日談と言うことになりますね。
実際、このアルバムのどの曲を聴いても、まるでもうなんだってどうでもよくなったみたいに投げやりでシニカルな、情けないヴォーカルを Vaettaの Little Sisterが必死でバック・アップしているにもかかわらず、そのパワーが「すでに死んでいる」ことを覆い隠すことが出来ずにいるじゃあ〜りませんか。
このアルバムはその意味で、There's A Riot Goin' Onではかろうじて残っていた「希望の灯」さえも遂に消えてしまった後の「抜けガラ」です。
とまあ、好きなことを書いておりますが、それはあくまでも、「1960年代までの Sly & the Family Stone」至上主義に立つワタクシの偏見であって、逆に1970年代に入ってからの Slyを「これならよし!」と認めた方にとっては、評価が完全に逆転することでしょう。
1967年の A Whole New Thing( Epic 26324)、1968年の Dance to the Music( Epic 26371)と Life( Epic 26397)、1969年の Stand!( Epic 26456)、そしてリリース時期こそ 1971年ですが、このアルバムにしか収録されていない Thank You Falettinme Be Mice Elf Agin / Everybody Is A Star / Hot Fun In the Summertimeを含めその収録時期は 1969年だった Greatest Hitsと、ここまでを「上昇期」、There's A Riot Goin' Onからは「下降期」とする論調も目立ちますが、ワタシ個人としては、「上昇期(特に Thank Youの全米チャート制覇を最後に)」の後、「なにか大切なもの」を失ってしまった「喪失期」と捉えたほうがいいんじゃないか?と思っています。
一見明るそうな曲調であっても、もはやそのヴォーカルは無残なまでに輝きを失っている楽曲ばかり、という彼の 1970年代は、もはや過去の遺産で喰いつないでいるだけ、と言ってはあんまりでしょうか?
なんてキツいことを言ってますが、逆に言えばそれだけ 1960年代の彼の音が画期的だった、ってことなんでしょね。
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Discography
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では初期に遡って彼の作品のデータを判る範囲で・・・
1967
Whole New Thing - Epic 26324
[ personnel: Sly Stone - produce, vocal, keyboard & guitar / Freddie Stone - guitar / Rosie Stone - piano & back ground vocal〜 / Cynthia Robinson - trumpet & voices〜 / Larry Graham - bass & vocal / Jerry Martini - saxophone / Greg Errico - drums]
Under Dog / If This Room Could Talk / Run Run Run / Turn Me Loose / Let Me Hear It From You / Advice / I Cannot Make It / Trip to Your Heart / I Hate to Love Her / Bad Risk / That Kind of Person / Dog / *・・・
これが Sly & the Family Stoneのデビュー・アルバムで、そのリリース月日を 1月 1日、としている資料もあります。オリジナルのクレジットには各メンバーのパートが詳細に書かれてはおらず、多少の推測も加わっておりますのでアヤしいとこには「?」をつけときました。
また Vaettaがバックグラウンド・ヴォーカルに参加している可能性もあります。
*─なお、CD化にあたって、当時は落とされたトラック、What Would I Doがケツにボーナス・トラックとして付け加えられました。
1968
Dance to the Music - Epic 26371
[personnel: probably same as above]
Dance to the Music / Higher / I Ain't Got Nobody / Dance to the Medley: Music Is Alive-Dance in-Music Lover / Ride the Rhythm / Color Me True / Are You Ready〜 / Don't Burn Baby / I'll Never Fall in Love Again / *・・・
4月27日リリースとしている資料もあります。
*─ CD化された際に Soul Clappin'をボーナス・トラックとして追加。
1968
Life - Epic 26397
[personnel: probably same as above]
Dynamite / Chicken / Plastic Jim / Fun / Into My Own Thing / Harmony / Life / Love City / I'm an Animal / M'Lady /Jane Is a Groupee / Only One Way Out of This Mess
上のDance to the Musicではそのリリースを 4月27日としてる「同じ資料」がこっちを 1968年 1月 1日としておりますが、モチロンそんなワケはありません。
1969
Stand! - Epic 26456
[personnel: probably same as above]
Stand! / Don't Call Me Nigger, Whitey / I Want to Take You Higher / Somebody's Watching You / Sing a Simple Song / Everyday People / Sex Machine / You Can Make It If You Try・・・
上記のちょっとアヤしい資料によれば 5月3日リリース。
Greatest Hitsを除くアルバム単位で見れば、おそらく最高傑作だと思う(ワタシは、ね)。まるでアミューズメント・パークを思わせる、ある種の「面白がり」精神が、これ以降のアルバムでは「衰退」していっちゃうよな気がします。ま、そんなもの求めてないひとも多い(特にブラザー系に?)よーですが。
1970
Greatest Hits - Epic 30325
[personnel: probably same as above]
I Want to Take You Higher / Everybody Is a Star* / Stand! / Life / Fun / You Can Make It If You Try / Dance to the Music / Everyday People / Hot Fun In the Summertime* / M'Lady / Sing a Simple Song / Thank You( Falettinme Be Mice Elf Agin)*・・・
同様に11月21日リリースという情報も。
*─いずれも 1969年に Epicからシングルとして発売されたもの( Epic 10497-Hot Fun In the Summertimeと Epic 10555-Thank You / Everybody Is a Star)で、他の曲と異なり、このアルバムにしか(当時は、ね。CDに移行した現在では Anthologyをはじめとする各種のベストものに収録されとります)収録されていません。
1971
There's a Riot Goin' On - Epic 30986
[personnel: Sly Stone - Keyboards, Vocal, Guitar & Produce / Freddie Stone - Guitar / Rosie Stone - Vocal / Cynthia Robinson - Trumpet / Larry Graham - Vocal & Bass / Jerry Martini - Saxophone / Greg Errico - Drums / Bobby Womack - Guitar]
Luv N' Haight / Just Like a Baby / Poet / Family Affair / Africa Talks to You "The Asphalt Jungle" / Brave and Strong / (You Caught Me) Smilin' / Time / Spaced Cowboy / Runnin' Away / Thank You for Talkin' to Me Africa・・・
日付は 11月20日とする資料あり。
一転してこのアルバムでは気に入ったの Runnin' Awayと Spaced Cowboyの二曲だけ、って感じでしたねえ。
そして皮肉なことに、これまで Slyにはハナもひっかけなかったワタシのまわりのブラザー系(ってなんじゃ?と言われれば説明に困るんだけど、ま、James Brownやなんかの「ダンサブル」なブラック・ミュージックを聴いてる人たち、かな?)の方たちが「こんどのスライはいいねえ」なんて言い出してビックリしたもんですが。
1973
Fresh - Epic 32134
[personnel: Sly Stone - Keyboards, Vocal, Guitar & Produce / Freddie Stone - Guitar / Rosie Stone - Piano & Vocal / Cynthia Robinson - Trumpet / Rusty Allen - Bass / Pat Rizzo - Saxophone / Andy Newmark - Drums / Little Sister - Vocal & Chorus]
In Time / If You Want Me to Stay / Let Me Have It All / Frisky / Thankful N' Thoughtful / Skin I'm In / I Don't Know (Satisfaction) / Keep on Dancin' / Que Sera, Sera (Whatever Will Be, Will Be) / If It Were Left Up to Me /Babies Makin' Babies・・・
6月30日リリース。ご存知のとおり、ここにはもう Larry Grahamがいません。
そして、それを買って来てから気付いたワタクシもアホですが、それだけに余計これには「恨み」があるのかもしれません。
いまでも印象に残っているのは Que Sera, Seraだけで、他は凡百のダンス系ブラック・ミュージックっちゅー感じでどれも一緒に聞こえましたっけ。あらためて聴き直してみても、やはり「退屈なアルバム」でした。
ただ、某掲示板ではここからの曲を絶賛する声も記されておりましたので、このあたりから Slyを聴きはじめたひとにとってはそれなりの魅力があるのかもしれません。
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It hurts too much
to write about Sly・・・
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1974年に発表された Small Talkを、その前作、湿っぽくゲンキが無い Freshへのフォローだ、としてるサイトがありましたが、それはある意味、当たっているかもしれません。
皮肉っぽく、ハスに構えた歌い方ばかりが印象に残った前作に比べれば、それまでとは違う質のものではあるけれど「光」も取り戻しているように思えます。しかし、それによってふたたび初期の作品に見られた「輝きを放つ」ようになったか?と言うと、それは「違う」。
このアルバムのジャケットで Slyが抱いている愛児、そして横に寄りそう妻の Kathleen Silva( Madison Square Gardenの 21,000人!の招待客の前で挙式!ただし、この幸福もさほど長くは続かず、その後、彼は一層、薬物への依存を強めていった、と言われています)・・・これがそのまま、このアルバムの「すべて」とまでは言わないまでも「ほとんど」を表しています。
彼の視線はよりパーソナルな、まさにファミリー・サイズへと移行し、と同時に音的にもストリングスを使うなど、より角の取れた方向へシフトしています。
There's a Riot Goin' Onでそれまでの「ロック」ワールドから一歩踏み出し、Freshでは「ロック」から重心を外し、この Small Talkでは完全に足を抜いてしまった Sly・・・
んなワケで、Larry Grahamが「いなくても」いちおー付きあってきたワタクシでしたが、この作品を最後にアルバムを自分で買うことをしなくなりました。
したがってこれ以降の作品は、誰かが持ってきてくれたときに聴いた程度ですから(それも 30年近くも前に・・・)、とてもその内容を云々できるほどの印象も残っておりません(と言うか、印象に残ってるくらい「いい曲」があったら買わないハズが無い!・・・あ、いま思い出した!Heard Ya Missed Meだけは「買った」んでした。で、つまらなくて誰かにあげちゃったハズ)。
Small Talk Epic 32830 / 1974年リリース
Small Talk / Say You Will / Mother Beautiful / Time for Livin' / Can't Strain My Brain / Loose Booty / Holdin' On / Wishful Thinkin' / Beter Thee Than Me / Livin' Whike I Livin' / This Is Love・・・ここでのメンバーはどうも完全な記録が無いようで、Slyの他は、おそらく結婚して姓が変わったものと思われる Rose Banks( Rosieいやさ Rosemaryだと思う)、Jerry Martini、Cynthia Robinson、Pat Rizzo(サックス奏者)、Sid Page(ヴァイオリン奏者)そしてロビン・トロワー(うう、懐かしい!)のドラムとして知られている Bill Lordanだったようですが、ベースが誰だったのか?は不明です。
High On You Epic 33835 / 1975年11月 8日リリース
I Got High On You / Crossword Puzzle / Yhat's Lovin' You / Who Do You Love〜 / Green Eyed Monster Girl / Organized / Le Lo Li / My World / So Good To Me / Greed
・・・このアルバムではやたらひとが多いんでカクゴしてちょ。まずサックスが Jerry Martiniと Dennis Marcellino、そして Cynthia Robinson、Freddie Stoneは当然として、ヴォーカルに Dawn Silva( Cynthia Robinsonの縁で登場。ツアーもともにしていますが後に George Clintonに接近し、P-Funk、Funkadelic、Parliamentの各レコーディングにも関わる)と Rudy Love( Rudy Love & the Love Familyのリーダー)、Cousin Gate(ってどうやら Gail Muldrowという当時弱冠 17才!の女性ギタリストでスライドも弾けるんだって。他に Graham Central Stationや Princeとも共演)、Bobby lylesのキーボード、ベースには Bobby Vegaと Rusty Allenの二人、ドラムも Willy Sparksと Jimmy Strassburgに Michael Samuelsというマルチ・キャスティングです。
Heard Ya Missed Me Epic 34348 / 1976年12月18日リリース
Heard Ya Missed Me, Well I'm Back / What Was I Thinkin' In My Head / Nothing Less Than Happiness / Sexy Situation / Blessing In Disguise / Mother Is A Hippie / Let's Be Together / Thing / Family Again・・・このアルバムではクレジットに Joe Bakerの名がありますが、これはアレンジャーの Joseph Bakerのようです。
他にも Dwight Hogan、Steve Schuster、John Farey、John Collaなんて名前もあるんですが(最後の二人はバンド仲間でもあるみたい)一体どんな連中なのかよー判りまへん。
他にも Dawn Weber、Virginia Ayers、Lady Bianca、Vicky Blackwell、Ed Bogas、Armano Peraza、Cousin Tiny、そしてお馴染み Vaetta、さらに「あの」 Peter Framptonも。
これが Epicでの最後のアルバムとなりました。そしてワタシが最後に聴いた Slyの音でもありました。
ただし、彼自身は、変わって Warner Brothersからさらに二枚アルバムをリリースしています。そちらは聴いたことどころか、お目にかかったことさえ無いので、さらにコメントのしようがございません。
ま、一応データなぞ・・・
Back on the Right Track Warner Brothers 3303 / 1979年11月 3日リリース
Remember Who You Are / Back on the Right Track / If It's Not Addin' Up / The Same Thing( Makes You Cry) / Shine It On / It Takes All Kinds / Who's To Say / Sheer Energy・・・クレジットによれば、Freddie Stewart、Rose Banks、Cynthia Robinson、Pat Rizzo、Mark Davis、Joseph Baker、Keni Burke、Walter Doening、Gary Herbig、Steve Madaio、Fred Smith、Lisa Banks(たぶん Rosieの娘でしょ)、Hamp Banks、Alvin Taylor、Ollie E. Brownの名前が記されています。
Ain't But the One Way Warner Brothers 23700-1 / 1983年 1月 1日( 1982年という資料もあります、つーか、その方が多いんですが)リリース
L.O.V.I.N.U. / One Way / Ha Ha, Hee Hee / Hobo Ken / Who in the Funk Do You Think You Are / You Really Got Me / Sylvester / We Can Do It / High, Y'All
このアルバムはちょっとミュージシャンも不明です。
この最後の二枚のアルバムについちゃあ、まったくどんな音なのかも判りません。
ま、Heard Ya Missed Meで「だめだこりゃ」ってんで離れてしまったもんで、チェックもしていませんでしたが、奇跡でも起こって、すんばらしー出来になってたとしたら、いくらなんでも、なんらかの評判が聞こえてきたハズです。ま、そーゆうのが一切、無かった、ってえことは・・・
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Rock-
Stone-
Pebbles
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1970年代で燃え尽きてしまったかのような Sly Stoneが、1980年代初頭に一枚のアルバムに顔を出しています。
Funkadelic*のアルバム The Electric Spanking of War Babies ( 1981年)に収録された Funk Gets Stronger I では Sly & the Family Stoneの正式メンバーだった Cynthia Robinsonと、Jerry Martiniに替わって参加していた Pat Rizzo( Sax.)が入っているのですが、Funk Gets Stronger - She Loves You では Sly Stoneが George Clintonと「ともに」リード・ヴォーカルをとり、そればかりかリズム・ギター、キーボード、さらにドラムまでも担当しているのです。
P-Funk、Funkadelic、Parliamentsという「もろ」ブラック・カルチャーこってこての(まずジャケット・デザインからしてブラザー系?)、ものスゴ〜いファンク・コングロマリット(?)の中に入った Slyが、やはりここでも「やや」内向した、ペシミスティックな陰りを Funk Gets Stronger - She Loves You に持ち込んでいるように感じるのはワタクシだけでしょうか?
*─ Funkadelic:もともとは George Clintonの Doo Wopグループ、the Parliamentsのバッキング・バンドでした。つまり、プロの(という言い方はヘンですが)ミュージシャンだったワケで、そこら、モータウンのあの面々に近いなりたち、と言うことができます。
どシロウト(?)が集まって出来た「ロック・バンド」、Sly & the Family Stoneとはそこが「決定的に」違うんですねえ。
ま、それはともかく、1964年に Parliamentsはバッキングとしてギターの Frankie Boyces、そしてその兄弟(ホントに毎回ハラ立つよね、兄か弟かちゃんと書け!)の Richardをベースに、Langston Boothのドラム、という三人をかかえます。しかしその三人は 1966年には兵役のために抜けています。
そこで 1967年には George Clintonの古くからの友人でもあったベーシストの Billy "Bass" Nelson、ギターの Eddie Hazel、それと、何人かの入れ替わりの末に Lucius "Tawl" Rossのリズム・ギター、Ramon "Tiki" Fulwoodのドラム、という顔ぶれが固まりました。
この布陣で 1967年には一連のヒットも出したのですが、契約先の Revilotレーベルとトラブルとなり、その打開策として Clintonはバッキング・バンドを前面に出し、Billy Nelsonの案で、それを Funkadelicと名付け、自ら the Funkadelic Labelを設立してリリースすることにしたのが 1968年の中頃。しかし、すぐにデトロイトの Westboundレーベルと契約が成立しました。中身は the Parliamentsとそのバックバンドなのですが、表面上は Funkadelicというバンドに「ヴォーカルで」 Parliamentsが「参加」している、ってワケですね。
このグループにオルガン奏者の Mickey Atkinsを加えてデビュー・アルバム Funkadelic がリリースされたのは 1970年でした。
これには当然 Parliamentsと、モータウンからのセッションメン、そして契約の関係で名前を出せないキーボーダーの Bernie Worrell(でも写真にゃ写っているんすけど)も参加していたようです。
もっとも Worrellは次のアルバム Free Your Mind...and Your Ass Will Follow You からは堂々とクレジットされるようになり、これ以降の P-Funkにあって重要な位置を占めてゆくことになります。
1972年には James Brownのバックを務めていた Bootsyと Catfish(ギター)の Collins兄弟がデトロイトで演奏してるのを見て気に入った Clintonはさっそく二人を雇い入れました。
しかしこの年、旧来のメンバーはガタガタになってしまいます。
まず America Eats It's Young の直後、Eddie Hazelが麻薬がらみの暴行罪で刑務所送りとなり、Tawl Rossは LSDの濫用のため健康を害して治療生活に入り、Bill Nelsonは資産の取り扱いに関して Clintonとモメたことが原因で脱退しました。
Clintonは抜けた穴を埋めるためにギターの Michael Hamptonを入れています。
その後、Cosmic Slop 、Standing On the Verge of Getting It On 、Let's Take It to the Stage までは Westboundからのリリースですが、1975年には Warner Brothersに移籍し、1976年には Warner Bros.での初アルバム、Hardcore Jollies を発売しています。
しかし、古巣の Westboundが対抗して(?)発売した Tales of Kidd Funkadelic は、なんとその Warner Bros.のHardcore Jollies よりも「売れた」というのだから面白いですね。おまけにそこからのシングル・カット、Undisco Kidd は、トップ 30にまで上がっています。
Warnerでの Funkadelicがものになった(?)のはやはり 1978年の One Nation Under a Groove のタイトルチューンのヒットからでしょう。この夏、実に 6週間にわたり R&Bチャートの頂上を独占し、アルバム自体も彼らにとって初のプラティナ・セールスを記録しています。
続く 1979年には Knee Deepがナンバー・ワンを取り、そのアルバム Uncle Jam Wants You がゴールド・ディスク。
ところで、1981年にはちょっとした混乱が起きました。
かっての Parliamentsのメンバーだった Fuzzy Haskins、Calvin Simon、Grady Thomasの三人が、P-Funkから去り、こともあろうに Funkadelicという名でシングル Connections and Disconnectionを発売し、チャート・インしていたのですが、本来の(?) Funkadelicもアルバム The Electric Spanking of War Babies からのタイトル・トラックがチャート・インしており、マーケットを混乱させています。
そして、このアルバムこそが、Sly Stoneと Cynthia Robinsonの参加したものでした。
さて、1993年 1月12日、Sly & the Family Stoneのメンバーたちは Rock and Roll栄光の殿堂入りの認証式典に揃っています(他の顔ぶれはクリームに C.C.R.にドアーズ)。
P-Funkの George Clintonに呼び上げられたメンバーはステージ上に歩みを進めましたが、その中には Sly Stoneだけがいませんでした。
Larry Grahamがリードした Thank You Falettinme Be Mice Elf Aginと Dance to the Musicの演奏の後、Larry、Freddie、Rose、Cynthia、Jerry、Gregの六人が感謝のスピーチを述べ始めたところで、今日は表れないものと皆が思っていた Slyが場内でトツゼン立ち上がり、それに気付いた観衆による満場の拍手の中、ステージに上がりました。
そしてマイクに歩みより、注視の中でただひとことの手短なスピーチ「すぐ会えるよ」の一言を残してその場を去っています。
ウワサでは Los Angelesあたりで世捨人のような暮しをしている、というのですが・・・
1997年 5月25日カリブ海の島 Arubaで行われた Shinbad's Soul Music Festivalに Larry Grahamが組織して Rose、Jerryそして Cynthia Robinsonで Sly & the Family Stoneのメドレーを演奏しています。
さらに 2003年の 6月にはレコーディング・スタジオにかっての Sly & the Family Stoneが再集結し、レコーディングに入ったのですが、やはりそこには Sly Stoneの姿はありませんでした。
Slyの状態は依然として好転していないようで、Larry Grahamが主になって新たに吹き込んだ 16曲には、たとえ後からのオーヴァー・ダブでさえ彼が参加することなく終っています。
Larry Grahamがいない Family Stoneなんて Family Stoneじゃないのと同様、Slyのいない Family Stoneなんて・・・
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Was It
All In
A Dream ?
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2006年の 2月、Sly は、第48回グラミーのエキシビジョン(?)に姿を現しています。
そのときにはずいぶん騒いでいた人もいましたが、もはや半年もするとそれさえも記憶から薄れていくようで、たとえば 2006年、音楽の 10大ニュースに Sly の出現を挙げるひとはたぶんいないでしょう。
そのとき「ちょっと」出て来ただけで、「その後」が「無い」から・・・
やはり、あれは「うたかたの幻」だったのでしょうね。
いえ、むしろ、それで良かったのではないか、と思っています。いろんな意味で。
Thank You Sly, for let me be myself again and again.
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